わたしたちは呪われている
書名を見たとき、「なんていいタイトルだろう」と感嘆しました。ダーウィンという19世紀の偉人の名と、「呪い」というおどろおどろしい言葉の組み合わせ。大したセンスだと感じ入りました。
そのとき、内容はまったく知りませんでした。とはいえ、たとえ中身が書名にふさわしくなくても、それで怒ることはなかったでしょう。羊頭狗肉・針小棒大は世の常です。本の世界も例外ではありません。
ところが、本書は本当に「ダーウィンの呪い」について語るものでした。呪いとは、「ほんとはダーウィンの主張じゃないんだけど、そうだと誤解・曲解されていること」の総称です。だったらもっと平和な言葉で語ればいいじゃないか、呪いなんて縁起が悪い。そう感じる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、誤解・曲解はダーウィン存命時から現在にいたるまで100年以上にわたって続き、おぞましい虐待や大量虐殺の要因になっています。それを表すために、呪い以上に適当な言葉があるでしょうか。さらに、それは今なお力をもち、あなたもわたしも取り憑かれているのです。これが呪いでなくてなんでしょうか。
どうやらこの呪いには三つの効果があるようだ。「進歩せよ」を意味する"進化せよ"、「生き残りたければ、努力して闘いに勝て」を意味する“生存闘争と適者生存”、そして、「これは自然の事実から導かれた人間社会も支配する規範だから、不満を言ったり逆らったりしても無駄だ」を意味する、“ダーウィンがそう言っている”である。それぞれ「進化の呪い」、「闘争の呪い」、「ダーウィンの呪い」と名付けたい。
これはミステリーである
「最も強い者が生き残るのではない。最も賢い者が生き残るのではない。唯一生き残るのは変化できる者である」
改革や自助努力、闘いの勝利を期待する企業経営者や政治家、それに政権与党の広報などが大好きな言葉である。「ダーウィンの呪い」の象徴的存在と言える。だがこの言葉を使っている人の思惑とは裏腹に、実はこの言葉はダーウィンの言葉ではない。
誤りは以前から指摘されているにもかかわらず、自由民主党は今でも(2023年11月下旬現在)広報にこの言葉を掲げ続けています。タイトルは「進化論」。
「生き残ることが出来るのは変化できる者である。これからの日本を発展させるために、いま憲法改正が必要と考える」
憲法改正は自由民主党結党時(1955年)からの党是ですし、それを訴えて悪いはずはありません。誤解されやすいところですからハッキリ申しあげておきますが、自分は自民党ないしその党是を批判するつもりは毛頭ありません。政党なのだから、主義主張は大いにけっこう。しかし、主張を正当化するための誤用はいただけません。「生き残れるのは変化できる者」なんて大嘘だって、誰か教えてやれよ!
広報がアホだからこうした誤った認識を垂れ流しているのでしょう。とはいえ、自民党は政権与党です。日本がアホだってことになりゃしないか。一国民としてとても心配しています。
本書はこの考えがダーウィンとはまったく無関係で、まるで事実に即していないことを立証した後、これをダーウィンの思想として広めたのは誰だろう、と考察していきます。本書の白眉のひとつと言えるでしょう。
本書のオビには、「サイエンスミステリー」とあります。まさに言い得て妙、この本はミステリードラマのごとく、犯人さがしをしてくれるのです。
明かされた犯人像は、驚くべきものでした。そのへんのミステリーよりずっと意外でした。えっ、その人が犯人なの? その人の言葉を自民党が使ってんの? なんて皮肉! 事実は小説より奇なり!
もっとも巨大な、深い呪い
偉人の考えとは異なるものを偽って主義主張に利用するのは、たしかに罪にちがいありません。しかし、軽微なものと言ってもいいでしょう。なぜなら、呪いはもっと重大な罪を犯しているからです。ナチスドイツの高官はこう語りました。
「彼(引用者註:ヒトラー)は生存競争、適者生存などの原理を自然の法則と考え、それを人間社会を支配する高次の命令だと考えた。その結果、力こそ正義であり、自らの暴力的な方法は自然の法則と合致していると考えた」
優秀な子は優秀な親から生まれる。ならば、人為的に優秀な精子卵子を掛け合わせれば、優秀な人間を作ることができるだろう。同時に、劣った精子卵子を排除すれば、人間集団の質を高めることができる。この考え方を優生学ないしは優生思想と呼びます。
この思想をもとに、ナチスドイツはT4作戦と呼ばれる作戦を実行しました。これは、身体・精神障がい者の虐殺です。
T4作戦はしばしば「ホロコーストのリハーサル」と形容されますが、ナチスドイツは自分たちの集団を優れたものにするために、まず「身体・精神的に劣っている」と考えられる者を殺し、続いて「人種的に劣っている」と考えられる者の虐殺をおこなったのです。
虐殺こそしてはいませんが、優生学を正しい思想ととらえ、実行していたのはナチスドイツばかりではありません。ほぼすべての国が、身障者の去勢・不妊手術をおこなっています。日本でも優生保護法という法律が施行され、1996年まで生きていました(平成に入っても続いていたのです!)。
ダーウィンのオリジナルな進化論は、原理的に「人種」の存在も、その優劣も否定する。生物は常に変化し、分岐し、そして進歩を否定するからである。そもそもダーウィンは「種」を実在しない恣意的なカテゴリーだと考えていた。皮肉にも本来、人種差別を否定し、人々の優劣を否定する理論が、その逆の役目を果たしたわけである。
これが呪いでなくてなんでしょうか。しかも、呪いはわれわれの深くまで入り込み、除去することの困難なものです。本書はこの呪いの奥深さを、ほぼ本の半分をついやして論じています。呪い(優生学)はまったく過去のものでなく、今なおわれわれの思考に深く入り込んでいるものなのです。
なぜ自由を求め、自由を主張する人々が優生学の統制を実現させるのか。なぜ反差別主義者が差別主義の優生学運動を推進するのか。なぜ道徳的であろうとして、反道徳的な優生政策を求めるのか。実際、強制不妊手術の過半数は女性に対して行われ、特に弱者の女性が最も被害を受けた。にもかかわらず、生殖機能に焦点を当てた優生学はフェミニズムを惹きつけた。
なお、本書の抜粋はここで接することができます。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 何が便利で、何が怖いのか』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/