本書で提案するのは、全く新しい形の会議とミーティングです。人が人生のうちで会議に消費する時間は、案外膨大な量のような気がします、中には全く形骸化して、時間だけを空費しているミーティングがあるはずです。ましてや、会議やミーティングで人が変わり、人生が豊かになる現象など、まず見られないのではないでしょうか。
冒頭で示したようなミーティングの方法を取り入れれば、旧態依然として苔むしたような会議が大きく変わるはずです。人が生きていく上で欠かせないミーティングを有意義なものに転化させれば、人は成長し、人生も豊かになり、組織、ひいては社会そのものも変わっていくでしょう。
新たな価値を生み出し人生を豊かにする「ほんとうの会議」とは?
作家であり精神科医でもある帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏は2010年ごろ、対話によって精神疾患を癒す「オープン・ダイアローグ」に触れる。そして、氏が長らく関わりつづけ、投薬やカウンセリングをしても効果がなかった「ギャンブル症」患者たちが、ただ自助グループのミーティングに参加するだけで回復していく要因に思い至った。
「オープン・ダイアローグ」では、心の危機が解消するまで、複数人からなる治療チームがその人のもとに何度でも赴き、対話を重ねる。そうするうちにいつの間にか、精神の危機にある人は危機を脱するのだという。
オープン・ダイアローグの要点は、
(1)「対話は手段ではなく目的であり、治療はその副産物である」
(2)「対話の目的は合意や結論ではない」
(3)「参加者全員から多様な表現が生まれることを重視する」
というもの。そして、これらがギャンブル症の自助グループが行うミーティングで大切でされている「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念に通じる、ということに気づいたのだ。
ネガティブ・ケイパビリティとは「不確実性や疑い、未知を許容する能力」。換言すれば「答えの出ない事態に耐え続ける」能力のこと。19世紀イギリスの詩人ジョン・キーツによって提唱され、その160年後に同じくイギリスの精神科医ウィルフレッド・R・ビオンが広めた概念だ。
この「不確実性や疑い、未知を許容する能力」は、落ち着いて状況を観察し、思考を深めるために極めて有効だという。さらに、その結果として新たな視点を得たり、斬新なアイデアや洞察を生み出したりすることに繋がるため、現在では教育、医療、介護の現場など、さまざまな場面で求められている能力だそう。
帚木氏は本書を通じて、上意下達が横行するストレスフルなミーティングや、ルーティーンと化している報告会、結論を性急に求めるような会議ではなく、ネガティブ・ケイパビリティを内在する「答えを求めない」「言いっ放し&聞きっ放し」の会議こそが、新たな価値を生み出し人生を豊かにする、と指摘する。
討論なし・批判なし・結論なし。
「答えを求めがちな世の中」に大きな一石を投じる1冊
第二章「心の病を治すオープン・ダイアローグ」では、精神病の治療法であるオープン・ダイアローグの概要について紹介。医療現場での運用の様子や、根幹を成す考え方について説明している。
第三章「悪を生む会議と人を成長させるミーティング」は、これら「オープン・ダイアローグ」と「ネガティブ・ケイパビリティ」を内在した会議がなぜ、どのように有効なのかを、具体的に考えていく章になっている。
真の信頼を醸成し、参加者たちのやる気を喚起して、人を成長させる会議とはどのようなものなのか。近年、世間を騒がせた、さまざまな企業が起こした社会問題や、旧日本軍の悲惨な作戦会議を「悪しき会議の例」として紹介し、対比してながら考察していく。
ここで取り上げられた社会問題は、まだ記憶に新しい「宝塚歌劇団の虐待」や「ビッグモーター事件」、さらには「ダイハツ工業認定試験不正問題」など。こうした事件を起こした組織でも、幾度となく会議は開かれていたはずだ。その現場が「オープン・ダイアローグ」の考え方や「ネガティブ・ケイパビリティ」を内在した「ほんとうの会議」であったならば、これらの問題は発生しなかったか、発生したとしてもすぐに適切な対応策が取られ、大きな問題にまで進展することは決してなかったはずだ、というのが著者の主張である。
最後の第四章「答えは質問の不幸である」は、ネガティブ・ケイパビリティの実相をより深く掘り下げる章になっている。その中では、フランスの哲学者モーリス・ブランショが提唱した「終わりなき対話」と、その実践の場であった「サンブノワ通りの仲間たち」に関連する、大河ドラマのような手に汗握るドキュメンタリーも紹介されている。
この「サンブノワ通りの仲間たち」を巡るエピソードは、日本では本書が初出しとのこと。当時の政治情勢も大きく絡んだ極めてドラマチックなこの物語は、日本で学生運動華やかなりし昭和40年代に左翼活動家たちのたまり場であった「神保町さぼうる」の風景を想起させた(もちろん質も雰囲気も異なるだろうが、印象として、の話である)。
この第四章は大いに物語的であると同時に哲学的でもあり、思索に富んだ言い回しが次々と登場する。なかでも印象に残ったのが、以下の一節だ。
この質問の答えの機能について、ブランショが例にとるのは、「空は青い」と「空は青いですか? はい」の違いです。この文章の違いは小学生でも判別できます。しかし問題になるのは、後者での「はい」です。この「はい」は単なるありきたりの肯定ではありません。質問の中で、「空の青さ」はいったん空白の中に置かれます。といっても、粉々になって吹き飛ばされるわけではありません。逆に劇的にある可能性まで高められます。そこでは単なる「青」を超越して、それがかつてあったことのないような強烈さを保持して、問いの瞬間に「空」との関係で対比されるのです。
ところがです。そこに「はい」という答えが発せられ、肯定されたとたん、せっかく空白の中に置かれた「空の青さ」が消えているのに気づかされます。純粋な可能性にまで変容させられていた瞬間が消滅して、もはや元には戻りません。
換言すると、この「はい」が、私たちに与えられた贈物ともいうべき豊かな可能性を奪ってしまうのです。答えの中の「はい」によって、私たちは正しく真っ直ぐな主題を失い、ある豊かな可能性に辿り着く道しるべを損失してしまっています。
要するに「答えは質問の不幸」なのです。
評価もなし、安易な要約、まとめもなし。
「正しい説明」はときに凶器になる。
「終わりなき対話」こそが豊かな人生への道であり、答えは質問を殺す。
従来の会議や議論についての固定概念を次々と覆し、パンチラインが山ほど登場する1冊。日常的に不毛な会議で消耗しがちな働き盛りの社会人はもちろん、XなどのSNSで不毛な議論に大切な時間を費やしがちな人々にも、ぜひ読んでほしいと思う。