今日のおすすめ

PICK UP

2025.03.10

レビュー

New

「誤解を招いたとしたら申し訳ない」……それ、謝罪になってませんよ。言語哲学者が明かす言葉のリアル

本書は、意味の表と裏に関する本だ。本書全体を通じて、意味の裏表はどう決まるのか、という問題を探求する。
探求の一つの鍵となるのは、意味の否認だ。人はときに、何かを意味したにもかかわらず、それをなかったことにしようと試みる。意味を否認する試みは通用することもあればしないこともある。それが通用する、というのは言質を与えずに済んだ、ということであり、それが通用しない、というのは言質を取られている、ということだ。つまり、意味の表と裏を区別する一つの基準は、意味したことを否認できるかどうかにある。表の意味とは否認不可能な意味であり、裏の意味とは否認可能な意味である。
そこで本書は、意味が否認可能であるとはどんなことかをじっくり考えてみようと思う。具体例として取り上げるのは、「そんなつもりはなかった」や「誤解を招いたとしたら申し訳ない」といったお馴染みの言い訳による否認の試みだ。

なぜ『そんな言い訳は無効だ』と言い切れるのかを理詰めで解説

著者の藤川直也氏は、東京大学大学院総合文化研究科准教授。言語哲学、意味論、語用論、形而上学を専門にする哲学者だ。

本書はおもに政治家をはじめとする「責任ある方々」の問題発言を取り上げ、私たちの日常でも行われているコミュニケーションにおいて、表の発言から裏の意味を類推させる「匂わせ」「ほのめかし」が可能なのはなぜなのか(どのような条件下なのか)を考察。
さらに、その「裏の意味」を否認する行為(言い訳)が「どんなときならば有効で、どんなときは『そんな言い訳は通用しない』と無効になるべきなのか」について、著者の専門である言語学や意味論の知見をもとに、詳細に分析した1冊と言える。

政治家や公的機関の問題発言、問題の言動として上げられているのは、たとえば多くの人の記憶に残る麻生太郎財務大臣(2013年当時)の「ナチスの手口に学ぶべき」や、桜田義孝衆議院議員の「女性ももっともっと男の人に寛大になって」という発言(2022年)。さらには神道政治連盟国会議員懇親会での配布資料における差別発言(2022年)など。旧ツイッター(現X)で、性被害者に対する誹謗中傷発言に「いいね」を付けた、杉田水脈元衆議院議員の裁判における判断についても取り上げられている。

これらの言動については、世論の反発を受けた後にそれぞれが弁明を発表している(杉田水脈に関しては、裁判において抗弁として主張している)。実際、それらの弁明を「何を言っているんだ」「そんな無理筋な言い訳が通用するか」と感じる人は多いだろうが、それでもその弁明を理路整然と完全否定できる人は少ないだろう。それを行っているのが本書である。

本書では「発言に伴う責任はどのように生じるか」「裏の意味はどのようにほのめかされるか」「なぜ人は『裏の意味』を読み取ることができるのか」「誤解はどのように生じるのか」など、言語でのコミュニケーションが持つ特性や長所、弱点などを分析。そこから「なぜこれらの『言い訳』が無効だと言い切れるのか」を、段階を追って理論的に解説している。

なによりロジックの組み上げ方が緻密で隙がなく、反論する人間の逃げ道をなくすような構成が見事。その分、スパッと結論から知りたい読者にとっては少し難解に感じるかもしれないが、各章の最後のまとめをはじめ、本文中でも折に触れて論点整理が行われているので、読者も頭の中で整理しながら読み進めることができる。この辺も「さすが言語哲学の専門家だな」と感じた。

近年増えている「犬笛」や「イチジクの葉」戦略の悪質さ

これらの「政治家や責任ある人々の責任回避の言い訳」は昔からあったとはいえ、この15年で一気に悪質な例が増えているような気がする。

その意味で、特に個人的に印象に残ったのが、第九章「犬笛とイチジクの葉」だ。
「犬笛」とは、「表向きは問題がない表現だが、分かる人にだけ分かる言い回しを使って、支持者に指示したり意思疎通したり、行動を促したりすること」を意味する表現。たとえば「生活保護を貰うべきでない人が貰っている現状は是正されるべきだ」という発言が、特定の外国籍の居住者が生活保護を貰うべきでないと考える人たちに向けて語られた場合、それは国籍差別の犬笛として機能することになる。
犬笛は表向きの内容――これはしばしば当たり障りのない内容だ――と、一部の人にだけ向けられた隠れた内容――こちらはしばしば表沙汰にしてしまうと問題視されうる内容だ――という二種類の内容をあわせもつ。この二重性は、犬笛が伝える隠された内容を裏の意味にとどめておくのに一役買っている。つまり表向きの当たり障りのない内容だけを伝えているということが、隠された内容の伝達に対する代替解釈文脈として機能するのである。
また、「イチジクの葉」とは、「恥ずかしいことや嫌なことを、無害なもので覆い隠す」という意味。ダビデ像の陰部を隠すイチジクの葉がその由来だ。排外主義的な発言と自覚している言葉を発する前に「私には外国人の友人が多くいますが」などという「言葉の免罪符」も、この「イチジクの葉」と言える。英語圏でいう「I have black friends.」というやつだ。

本書ではまず、これらの論法を「発言にある特定の意味を与えつつも言質は与えないための“責任逃れのストラテジー(戦略)”」であるとバッサリと断罪。

そのうえで「犬笛が犬笛として効力を持つためには『社会の分断』が条件であるうえに、その社会の分断が“深刻化していない”という条件が必要になる」と記している。
たしかに分断が進んで「差別は決して認められない」という基礎的な社会規範の共有が危ぶまれる状況になっていたとしたら、それはもはやあからさまなヘイトスピーチが横行する世の中であり、犬笛は不要になっている。イチジクの葉に関しても、ほぼ同様だ。

犬笛が効力を持つ世の中と、もはや必要ない世の中。
これはそのまま、日本とアメリカの現状に近いように感じた。

日本では極右政党や極右団体のみならず、直近の衆院選で躍進した野党第三党の党首までもが排外主義や世代分断、官民分断の犬笛を吹き、先鋭化した支持者たちがXで盛り上がっている。
一方でアメリカでは、トランプ大統領の再選により、もはや「犬笛」の必要がないくらい性的マイノリティや移民への差別などが激しくなっているように見える。トランプが前回の選挙で落選したときの「選挙が盗まれた!」はそのまま支持者の暴動を誘発する犬笛だったが、今やアメリカでは「犬笛」という責任回避戦略を取る必要すらなくなっているのではないか。

こんな気づきを持ちたくはなかったが、日本はまだ「犬笛」が効力を持っている分、マシなのかもしれない。日本でこれ以上の「社会規範の崩壊」を目にすることがないよう祈りたい。

レビュアー

奥津圭介

編集者/ライター。1975年生まれ。一橋大学法学部卒。某損害保険会社勤務を経て、フリーランス・ライターとして独立。ビジネス書、実用書から野球関連の単行本、マンガ・映画の公式ガイドなどを中心に編集・執筆。著書に『中間管理録トネガワの悪魔的人生相談』『マンガでわかるビジネス統計超入門』(講談社刊)。

おすすめの記事

2024.11.12

レビュー

「トイ・ストーリー」「創造博物館」……そこに潜む政治を見る。政治を楽しく知る。

2024.03.27

レビュー

SNSでことばの事故を起こさない方法とは!? 日本語ラップは言語芸術!?『日本語の秘密』

2024.10.14

特集

AI時代だからこそ哲学を──。静かなブームを呼ぶ哲学のロングセラー

最新情報を受け取る