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2025.04.18

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なぜ国家は世界の問題を解決できないのか? 混沌とした時代を読み解くための1冊

たしかに私たちの日常生活は、ただ社会経済的に営まれるものではなく、政治的な領域において国家の意志や決断に左右される。国家を介してしか社会を組織できないのであれば、私たちは本当の意味での社会の主人公、つまりは主権者になることはできず、どこまでいっても国家による解決を最終的に期待するしかない。これが「国家主権」の内実であり、国家を批判するリベラルな論者でさえ、私たちの社会生活が国家なしに組織されていないことを理由に、さまざまな社会問題の解決を国家に頼ろうとする。だが、そもそも国家権力をつうじて気候変動やパンデミック、ひいては軍事紛争などを解決することが本当に可能なのだろうか。「21世紀の国家論」という壮大なタイトルを冠した本書で、私たちが問いたいことはこの一言につきる。
著者の隅田聡一郎氏は、大阪経済大学経済学部の専任講師。一橋大学大学院社会学研究科博士課程を終了後、海外の複数の大学での客員研究員を経て現職。かつては戦後補償や平和問題といった市民運動、3.11以降は反原発運動や反レイシズム運動に深く関わっていた経験もあるという研究者・思想家である。

本書は全3部の構成になっている。

21世紀の現在において、リベラルや左派の思想家たちは「国家による資本主義の変革」という期待と幻想に取り憑かれている。第一部「資本と国家に抗するマルクス」では、左派ですら無意識のうちに国家権力への依拠を自己の中に内在化している現状を相対化すべく、マルクスの「社会の経済学(ポリティカル・エコノミー)批判」を再度、検討している。この、マルクスの「社会の経済学批判」は、これまで日本ではいわゆる「マル経」、マルクス経済学として理解されてきた。しかし、現在のマルクスの読み方では、資本主義という経済システムのみを分析したものではなく、国家をはじめとする社会システム全体を分析したものとして捉えられている。
国家を自律的な存在物ではなく、「総体性としての社会」の構成要素として把握すると、国家に過大な機能や能力を付与する国家フェティシズムに陥ることはなくなる。もちろん国家についてのこうした幻想は、法フェティシズムと同様に、リアルで客体的な思考形態でもある。たとえば、近年有力な歴史社会学の国家論では、マルクス主義の経済的決定論が否定され、近代国家の制度的能力とその自律性が強調されている。たしかに、近代国家だけが自らの軍事・財政力によって対外的に戦争を遂行し、国内外の資本蓄積に対しても(補助金や関税等で)介入することができるのは事実だ。しかし、こうした外観上のリアルな自律性から、「資本の」国家の形態=権力を、独力で生産を組織化する能力と理解することはできない。繰り返しみてきたように、国家のプロトタイプの形態=権力は、「資本の」国家のそれとはまったく異なるからだ。
第二部「マルクスとシュミットの邂逅」では、第一部の「社会の経済学批判」の再検討を受けて、国家主権とは異なるマルクス独自の主権概念、「資本の主権」というフレームワークが提示されている。これが(厳密には区別されるものではあるが)21世紀初頭にイタリアの哲学者、アントニオ・ネグリ氏と米国の政治哲学者マイケル・ハートが名付けた「21世紀の新しいグローバル秩序」=「帝国」、つまりは主権概念が狭義の国家主権を超え、グローバル資本主義の「世界帝国」へと拡張していく、という考え方の大元となっている。
ネグリとハートは、グローバル化した現代において「国家主権」を超えるような主権の在り方を〈帝国〉と呼んだ。このフレームワークは、直後に生じたイラク戦争が米国の「帝国主義」を象徴するものだったこともあり、数多くの批判を呼んだ。最近でも、イタリアの政治哲学者であるロベルト・エスポジトがネグリに直接疑義を呈している。21世紀は、国家主権が弱体化するどころか「リヴァイアサン2.0」と呼ぶべき状況にあり、戦争と国家が再び社会の構成原理となっているのではないか、と。しかし、〈帝国〉論の目的は、マルクスと同様に、資本に包摂された国家及び国家間システム、つまり「資本の主権」を明らかにしようとするものだった。ネグリたちの批判的な主権理論は、マルクスの「社会の経済学(ポリティカル・エコノミー)」批判、さらにはシュミットの憲法論から着想を得たものである。
上記引用でも触れられている通り、この「帝国」=グローバル資本主義は、明らかに行き詰まりを見せている。それが現在進行形で国家主権の強化を促進し、政治的民主主義システムを疑問視するポピュリズムの台頭が起きていることは、本書でも冒頭をはじめ数ヵ所で触れられており、現実世界でも多くの人たちが体感していることだろう。

第三部「惑星主義と『資本の帝国』」は、気候変動や戦争など、国境を超えた複合的な危機がグローバルに偏在する21世紀においての「国家」の在り方についての論考だ。
「資本の主権」と「国家の主権」の歴史的背景から読み解く関係性に触れるとともに、この状況下では、国家について語る際にも狭義の「国家主権」という枠組みを離れ、いわば惑星的な次元において「主権の批判理論」が展開されなければならない、と述べられている。
歴史的にみれば、「資本の主権」から諸国家システムが生まれたわけではない。あくまでも、西ヨーロッパで成立していた国家間システムを、「資本の主権」が一つの制度として包摂していっただけなのだ。19世紀後半から20世紀にかけて、オスマン朝や中国といった「世界=帝国」が、イングランドやフランスといった資本主義列強によって破壊・分割され、国家間システムに組み込まれていった。しかし、だからといって、資本主義世界システムのいわば「上部構造」として国家間システムを位置づけることはできない。というのも、「短い20世紀」(マルクス主義歴史学者E・ホプズポームの言葉で、第一次世界大戦からソ連崩壊までを意味する時代区分。18世紀末のフランス革命から第一次世界大戦までの「長い19世紀」と対比されている)において、諸国家システムは確かに重要な地政学的制度の一つではあったが、「バランスオブパワー」として十全に機能していたわけではないからだ。
ここまで引用してきた文言からも察せられるだろうが、本書は博士論文をもとに2023年に上梓された研究書『国家に抗するマルクス――「政治の他律性」について』(堀之内出版)の続編にあたる書籍だけに、前提として経済学、政治学、社会学、地政学等に関する比較的高度な知識を持っていない人にとっては、いささか専門的な1冊に感じる。正直、私自身も十分に読み解けている自信はまったくない。

しかし、まさに私が本書を読んでいるときに、驚くべきニュースが流れてきた。
アメリカの超党派シンクタンク「平和研究所」の建物を、イーロン・マスク率いる政府効率化省(DOGE)が武装警察官とともに「力づくで乗っ取った」というのだ。
米平和研究所(USIP) は、(公式サイトの記述によると)「海外での暴力的な紛争の予防、緩和、解決を支援するという使命を持って議会によって設立された超党派の公的機関」である。
トランプがこの組織を解体する。これが意味することは、まごうことなき「パックス・アメリカーナの終焉」だ。

グローバル資本主義の行き詰まりを背景に、一部研究者が想定していた「国家という概念を超えて世界がボーダレスになる」というイメージは消えつつある。むしろ21世紀は、今一度「国家主権の強化と国家同士の地政学的対立」の世界、19世紀末~20世紀初頭の世界へと回帰していく。そんな混とんとした時代を読み解くための「通常の国家論より一段上の視点から見た論考」として、本書の果たすべき役割はどんどん大きくなっていくのではないか。

難解な本は、フワッとした理解であっても一度全体を通して読んだうえで「今一度読み直す」ことで、少しずつ理解が深まることが多い。本書も、今一度読み直してみようと思う。

レビュアー

奥津圭介

編集者/ライター。1975年生まれ。一橋大学法学部卒。某損害保険会社勤務を経て、フリーランス・ライターとして独立。ビジネス書、実用書から野球関連の単行本、マンガ・映画の公式ガイドなどを中心に編集・執筆。著書に『中間管理録トネガワの悪魔的人生相談』『マンガでわかるビジネス統計超入門』(講談社刊)。

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