鉄は、人の体内に4~6gが存在する。亜鉛の2倍以上、銅の60倍以上であり、金属元素のなかでは最大量を誇っている。体の中の鉄のほとんどはタンパク質と結合しており、その約65%がヘム鉄タンパク質として、酸素分子の運搬を担うヘモグロビン中に存在している。
その文体は上品かつ丁寧だが、時には元素周期表がしっかり頭に入っていないと読めないくらい、ノーブレーキ・手加減なしの部分もある。すらすら読みやすいとは言えないかもしれないが、「知の奔流」に触れる醍醐味は確実にある。
まずは人体における元素濃度表をご覧いただこう。「こんなに多いのか」と驚く人もいるだろうし、微量・超微量の元素に記された必須性を示す記号にも興味を惹かれるのではないだろうか。


生体必須微量元素は、英語では「bio-essential trace elements」と表される。「trace」は「トレース(痕跡)」という意味なので、あまり科学的な表現には感じられないかもしれない。
しかし、この言葉は本来、写真が発明されて以降の「時間の痕跡をとどめるメディア(媒体物)」の代名詞として使われていた。写真は、絶え間なく流れていく時間の中のある特定の瞬間をとらえ、記録し、その痕跡――その瞬間の対象物の姿や形――を残すプロセスである。この用語が、写真から生物学に持ち込まれ、「trace elements」という表現が誕生した。
この大事件が発生したころ、大陸の大移動や地球全体が氷で覆(おお)われて凍りつく「全球凍結」などがあり、大陸運動や火山の噴火熱などによる岩石や土の溶解、あるいは氷の融解にともなって大量の岩石や土砂が海洋へと流れ込んだ可能性が考えられる。
その結果、当時の海水中にはあまり含まれていなかった多種多様な元素、特に金属元素が岩石や土砂とともに海洋に流入して溶けはじめ、それらが海洋中の植物や微生物を含むさまざまな生物の体内に取り込まれた可能性が考えられているのだ。
もし地球に金属や金属イオンが存在していなかったなら、生物は効率的なエネルギー獲得方法を身につけることはできず、また酸素の毒性を回避することもできなかっただろう。この金属特有の性質は、生体成分の大部分を構成する有機物ではまかなうことができない。金属イオンを活用することでしか得ることのできない生体メカニズムの獲得こそが、地球上で生物が繁栄できた第一の理由であると考える所以(ゆえん)である。
ここに紹介したように、生命の“素”をつくる低分子化合物は、条件によっては海水中や熱水噴出孔付近で金属イオンを触媒として合成されることが、部分的に明らかになったと考えられる。しかし、生命の合成という段階にたどり着くには、まだまだ解決しなければならない多くの難問が待ち構えている。すなわち、細胞の合成、エネルギー産生系の成り立ち、生命の再生産(増殖や生殖)、栄養物質の取り込みと排泄、物質代謝や呼吸のしくみなどがいかにして誕生したのか――これらを解明するための、さらなるブレイクスルーとなる研究が必要であろう。
そのなかで著者は、1869年に「元素周期表」を発表したロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフに最大級の賛辞を贈る。近代科学のバイブルといえる1枚の表を生み出した科学者の才気とひらめきは、現代に生きる我々にとっても「essential(必要不可欠)」な「trace(痕跡)」となった。まさしく「微量元素(bio-essential trace elements)」を語る本書でフィーチャーするにふさわしい。多くの科学者に刺激と勇気を与え、この先も支え続けるだろうメンデレーエフの偉業を、熱く褒め称えずにいられない筆者の敬意にも胸打たれる。
また、近代科学が発展するずっと以前から、人類が金属や鉱物などの無機元素をごくわずかながら医療に役立ててきた歴史も語られる。古代メソポタミアや奈良時代の昔から、その薬効がすでに発見されていた事実は興味深い。
紀元前の古代メソポタミアの石版や、古代エジプトの医学について記された「エーベルス・パピルス」には、現代の知識からみて金、銀、銅、鉛、スズ、鉄、ヒ素やマグネシウムなどを含む鉱物、岩石、宝石が、病気の治療に用いられていたことが書かれている。
たとえば、水銀、マグネシウム、鉄を含む化合物を、それぞれ梅毒、胃腸障害、貧血の治療に用いたのだという。