本書は1993年に東京大学出版会から刊行された『からだの自然誌』を改題し、文庫化したもので、「自然誌」という視点から解剖学の歴史をたどった一冊だ。では「解剖学」とは、いったいどんな学問なのか。
解剖学は、人体構造についての知識を与えるだけでなく、われわれが人体を理解するための枠組みをも提供してくれる。解剖学という枠組みなしで眺める人体は、無秩序な肉塊にすぎない。解剖学という眼鏡をとおすことにより、われわれは人体の中に整然とした秩序をみいだすことができる。
「自然誌」とは、無秩序な自然を整理し、秩序だって記載する営みである。この本では、自然の中に秩序をつける自然誌という営みが、どのようなものか、解剖学という枠組みがどのように形成されてきたのか、さらにその枠組みは、人体を含む生命的な自然のもつ性質によって、あるいは物事を認識するわれわれの能力によって、どのように制約されているのか、そういったことを、できるかぎり深く掘り下げてみようと思った。
全八章から成る本書は、単に歴史をたどるのではなく、解剖学と医学をさまざまな側面から丁寧に眺めることで、その姿を浮き彫りにしていく。第一章では、解剖学の成立に多大な貢献をした二人の研究者・ヴェサリウスとハーヴィーの人生と成果に光を当てる。
ちなみにヴェサリウスの名は本書で初めて知ったが、あまりの天才ぶりに目を見開いた。1514年にベルギーで医者の家系に生まれた彼は、幼年時代、動物の解剖と読書に没頭したという。1528年、14歳でルヴァン大学へ入学すると、ラテン語やギリシア語を学びながら中世の書物を読みふけり、古典への造詣を深めていく。19歳の時にパリで医学の勉強を開始したのち、1537年にはイタリアのパドヴァ大学医学部で試験を受け、優秀な成績で学位を授与された。それと同時に、教授たちの前で行った解剖も評価され、弱冠23歳にして解剖学の教授に任命されたというから、開いた口がふさがらない。
そんな彼が28歳の時に出版したのが、700ページにも及ぶ『ファブリカ(人体の構造について)』だ。全編に美しい解剖図が添えられたこの本の刊行以前は、古代ローマの医師・ガレノスが遺した学説が通説だったこともあり、出版と同時に大きな反響を呼んだそうだ。なおヴェサリウス以前の解剖学や『ファブリカ』の内容、そしてハーヴィーの生涯と著書については、ぜひ本書で直接触れてほしい。
つづく第二章では、解剖学と生理学の区別と対比について、その研究者の態度の違いや、学問ごとの特徴を解説している。この章では、解剖学と生理学を自然誌と自然哲学の関係に見立てながら話が進むこともあってか、哲学史ともいえる内容にも話が及ぶことに驚いた。そして第三章以降では、解剖学者たちが研究の中で生物の形態にどのような意味を与えるかというテーマを中心に、議論が進められていく。
自然誌としての解剖学が発見するものは、新しい未知の構造だけではない。それまで知られていた構造に、新しい意味を与えるのも、解剖学における発見である。人間や動物の形態の観察から、身体の構造の意味を帰納すること、それが自然誌としての解剖学の、大きな仕事なのである。