テーマごとに分かれた全3章のなかに、詩や自伝、空想小説などの著作から厳選して掲載。漢詩は原文に加え、日本語読みと現代語訳も付け加えられている。独特の言い回しも含む単語の詳しい解説もあり、さらに韻を踏んでいる箇所も記号で明示され、細かいディテールを理解しながら陶淵明の作品世界を味わうことができる。
陶淵明の何が多くのファンを惹きつけるのか? 作品自体の魅力に加え、その経歴も大きく影響している。彼はもともと、彭沢(ほうたく)県という小さな町の県令(町長)という官職に就いていたが、役人勤めが性に合わず、41歳のときに退職。1600年前の中国と、現在の年齢感覚はもちろん異なるだろうが、早期引退であることは間違いない。安定した収入も社会的地位も捨て、陶淵明は故郷の農村で自給自足の生活を始める。家には召使や、5人の子供たちがいたのにもかかわらず。
いまでいう「悠々自適のカントリーライフ」も、当時としてはだいぶ型破りな生き方だった。当時の中国は複数の王朝が割拠する動乱の世であり、役人といえども生涯安泰とは言いきれない時代でもあった。そんな殺伐とした世情にうんざりする気持ちもあったのかもしれない(やや現代の世界情勢も思い出させる)。引退後、暮らし向きは確かに以前より苦しくなったはずだが、好きな詩を読み、好きな酒を楽しむ日々がいかに彼の人生を豊かにしたか、彼の残した多くの著作が物語っている。そのマインドや実行力への共感と憧れが、いまだに多くのファンを持つ理由だろう。
陶淵明が県令の職を辞し、郷里の自宅に帰るときに詠んだ「帰去来の辞」は、特に有名である。ここでは現代語訳の一部を引用しよう。
いざ、帰ろう、
田園は荒れはてようとするのに、なぜ帰らない。
われとわが心を体のためにこき使ってきたのに、なぜくよくよとひとり悲しむのだ。
過去はいまさらどうにもならぬと悟り、未来はまだ追求できると知った。
道に迷いはしたがさほど遠くは来ていない、今が正しく過去は誤りだったと覚(さと)った。
とはいえ、その未来にあるのは、ただ楽天的な希望だけではない。生活者としての苦労も、家族に迷惑をかける申し訳なさも、周囲から変人呼ばわりされることも覚悟して、並々ならぬ決意で選んだ道だったはずだ。それでもなお独立独歩の生活には喜びが溢れ、過去への未練は毛頭ない。その心のうちを、優れた文才をもって書き留めたことで、陶淵明は歴史に残る存在になった。ある意味、ヒロイックな生き方と言えるかもしれない(家族は大変だったと思うが)。
また、陶淵明は酒をこよなく愛した詩人としても知られた。それも彼が多くの読者=世の酒飲みの信奉を集めた由縁だろう。以下の詩は、村の古老たちが酒壺を手にやってきて、松の木陰で開いた酒宴のようすを綴った作品(原文と日本語読みを併記)。列席者たちがどんどんへべれけになっていくさまを、実に活き活きと描いている。
父老雑乱源 父老(ふろう) 雑乱(ざつらん)して言い
觴酌失行次 觴酌(しょうしゃく) 行次(こうじ)を失う
不覚知有我 覚えず 我有るを知るを
安知物為貴 安(いずく)んぞ知らん 物を貴しと為すを
そして、陶淵明は自由な想像力の持ち主でもあった。古くから伝わる神話や伝説、古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』などにインスパイアされ、理想郷や人間離れしたキャラクターなどのファンタジックな世界を好んで描いた。さらに、「形影神(けいえいしん)」という連作は、肉体(形)と影と精神(神)の三者問答が繰り広げられる作品。陶淵明の脳内における哲学的自問自答を、キャラクター化して描いたものである。そのイマジネーションは、現代でも相当に奇抜かつ独創的なものと言える。
しがらみのない生の歓(よろこ)びを高らかに詠(うた)いながら、同時に彼は暗い思いに沈み、眠れぬ夜も過ごすようになった。やがて訪れる死と向き合った作品群には、陶淵明のシリアスな面が表れている。本書のラストを飾る「挽歌」の詩三首は、ひときわ味わい深い。
自分の葬儀のようすを死者の視点から想像する「挽歌」二首目は、彼のイマジネーションと観察力、詩情と死生観が同時に表れた作品と言えよう。その描写は、たとえば「自分が死んだことを受け入れられない幽霊の視点」を描いたような、現代のフィクションにも通じるセンスが感じられる内容だ。これも現代語訳を引用したい。
昔は飲むべき酒がなかったのに、今では飲めない杯に酒が満ちている。
春の濁り酒には泡粒が浮いている、いつまた飲めるあてもないのに。
肴(さかな)の膳が前にずらりと並べられ、親戚や友人がわが傍(かたわ)らで泣いている。
ものいおうとしても口から声は出ず、見ようとしても眼に光はない。
以前は屋敷のねやで寝ていたのに、今では雑草の茂る地が住みかだ。
ひとたび家門を出てしまえば、帰れるときは決して来ないのだ。