アジアとヨーロッパを結んだ古代の通商路、シルクロード。その長く険しい道のりを初めて切り拓いた人物として知られているのが、紀元前2世紀に漢王朝(現在の中国)の大使をつとめた張騫(ちょうけん)である。本書は、その波瀾万丈の半生と歴史的功績を、現存する史料や文献をもとに記した重厚な一冊である。
著者は慶應義塾大学文学部中国文学科を卒業後、NHKに入局。チーフディレクターとして『シルクロード』『大黄河』などの番組を手がけた。つまり、中国の雄大な歴史と大地を追うことをライフワークとした人物であり、その研究成果のひとつと言える本書は『シルクロードの開拓者 張騫』のタイトルで1991年に筑摩書房から刊行された。今回の復刊では新たに解説が追加され、読みやすさに配慮してルビや修正なども加えられている。
初の「西域専門家」となり、東洋と西洋をまたにかけた文化交流を実現し、後世に多大な影響を与えた偉人・張騫。著者はその生きざまに敬意と共感を惜しみなく注ぎながら、彼の足跡を丹念に追う。なぜ漢の武帝が使節を西に向かわせたのか、一介の役人だった張騫がなぜその大任を担ったのか、といった歴史的背景や周辺事情もつぶさに描かれ、たとえば春秋戦国時代(紀元前3世紀)の中国を舞台にした漫画『キングダム』の愛読者にとっても非常に興味深い内容ではないだろうか。
その道のりは決して平穏無事なものではなかった。そもそも、旅の目的は「漢の宿敵である遊牧騎馬民族・匈奴の軍勢を撃退するため、西域の遊牧民族・月氏と同盟を結ぶ」ことだった。しかし、張騫は第一次出使の途上で匈奴(きょうど)に捕らえられ、10年間におよぶ拘留生活を送ることになる。現地では妻も娶りながら、10年目にようやく脱出して月氏へと辿り着くが、同盟を結ぶことは果たせなかった。その後の第二次出使においても、張騫は本来の目的を果たしていない。
しかし、代わりに持ち帰ったのはその欠落を埋めて余りあるものだった。「人生に無駄なことなどない」――そんな勇気も読者に与えてくれそうな故事である。
張騫の報告は大要つぎの三項に要約することができる。
第一に、みずから訪れた大宛、康居、月氏、大夏についてはむろん、さらに伝聞によって知りえた西域諸国についての地勢、人口、物産、政情など諸般にわたる情報。
第二に、黄河源にかんする情報。
第三に、身毒(しんどく)国つまりインドと蜀郡(四川)との交渉にかんする情報。
これらの情報は、すべて中国にはじめてもたらされたものであり、張騫の報告は予期しない収穫にみちていた。
張騫一行が見知らぬ異郷を突き進む旅の過程の描写には、著者がNHK取材班としてリアルに体験した自然の厳しさの記憶も随所にフラッシュバックする。味気ない史料本とは一線を画した筆致が魅力的だ。たとえば、張騫が第一次出使からの帰国の途で接したであろう、タクラマカン砂漠の黒い嵐ことカラ・ブラン(地元の気象用語では砂暴)の記述。
一たび砂暴が吹き荒れると、天空に舞いあがった風砂は、もともと粒子の細かい沙漠の砂であるから、三、四日は漂ったままでいる。しかも、広大な沙漠のことである。たとえ自分の目の前にはなくとも、必ずどこかで吹き荒れており、それがまた風砂をまきあげる。ために、三、四、五月頃の南道一帯では、いつも空がどんよりとしており、「昼間を夜に変え」、夜は夜で星も月も光を失う。沙漠にまたたく満天の星などのぞむべくもなく、以来、私は「月の砂漠」といううたは歌わないことにした。
また、直線的に史実を追うだけでなく、ひとつの出来事から中国史における逸話の数々を連想し、奔放に枝葉を広げる筆致も独特である。最初は戸惑う読者もいるかもしれないが、常に過去の歴史に学び、政(まつりごと)に活かしてきた悠久の中華思想の実践とも言え、中国文化を愛してやまない著者らしい味わいのある文体である。
張騫は第二次出使から帰国した翌年、元鼎3年(紀元前114年)にこの世を去る。生年不詳のため、年齢は明らかになっていないが、著者はその死因を独自に考察する。そこに張騫という人物の激動の人生が集約されている感もある。
張騫のばあい、仮りに建元二年(前一三九)の第一次出使のとき、なお壮年の三十代だったとすれば、没年は五十代後半あるいは六十代ということになる。だが、享年はともかく、その死が多年にわたる疲労の蓄積の結果であったことはまちがいない。建元二年の第一次出使以来、死に至るまでの二十五年間のうち、実に十七年間を流砂の西域行に身を投じているのだ。さらにその間、二度にわたる対匈奴戦への出陣、西南夷道開拓に尽力し、文字通り席の暖まる暇さえなかったのである。今日でいうならば、まさに“過労死”ということができよう。烏孫への第二次西域出使の翌年に没しているのが、そのことを暗示しているように思えてならない。
本書は張騫の死後も、その旅がもたらしたもの、影響の大きさについて大きく紙数を割く。葡萄やニンニクといった農作物や、それらを用いた多彩な食文化、さらに音楽やマジック(サーカス芸)などの文化も西域から多く流入してきた。現在の中国文化を形成する要素の多くが、張騫の旅の成果に含まれていることに、改めて驚かされる。
張騫を西へと派遣した張本人・武帝が最も強く求めたものは大宛(現在のウズベキスタン・フェルガナにあった遊牧民族国家)の逞しい良馬「汗血馬(かんけつば)」だったが、張騫はその王の執心を突いて大がかりな積極外交を実現させたとも言える。それもまた歴史の面白さであり、ビジネス書としても応用可能な部分かもしれない。
逆に、中国から西域にもたらされたものも大きい。製鉄や鑿井(さくせい)といった技術は、中央アジア以西の人々の生活を一変させただろうし、何より中国産絹織物のヨーロッパへの流入は、この通商路の名前の由来にもなったほどエポックメイキングな出来事だった。
後漢時代、紀元一世紀には、中国の絹はローマに達し貴人たちの目と心を奪っていた。ローマ帝国の作家ペリエ―ゲーテスは「中国人のつくり出した珍貴ないろどりある絹は、その美(うるわ)しさは野にいまを盛りと咲く花、その繊細さは蛛(くも)の網」とたたえ、「ローマ市内の中国の絹の高価さは、おなじ重さの黄金に等しい」(アウレリアーニ)にもかかわらず、貴人たちは競って買い入れた。ローマ帝国の滅亡は、中国の絹を大量に買い入れたため、金銀が大量に流出した結果だという歴史家さえある(夏だい著・小南一郎訳『中国文明の起源』・一九八四年・日本放送出版協会) 。
こうして、長安からローマに至る東西文化交渉の道は「シルクロード」とよばれるに至った。
(中略)
今日、その歴史をふりかえるならば、まことに張騫こそ、その開拓者たる位置に立つ人物といえよう。
革命とも言える偉業を成し遂げた人物の伝記としても、また人類史の大きなうねりを描いた歴史書としても、読み応え満点。そして、大きな夢やロマンを抱きにくい現代人にこそ、懐に携えてもらいたくなる一冊である。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。