外国文学をよく読む人なら、カフカにかぎらず、似たような疑念にとらわれた覚えはあるだろう。日本語に翻訳されたものを読んで、はたして作品を正しく読んだことになるのか? この表現は原語のニュアンスをちゃんと汲んでいるのか? 原書に触れなければ、厳密には読んだとは言えないのではないか? これは「外国語翻訳の限界」とか「誤訳の可能性」といった問題からくる若干パラノイア的な葛藤だが、カフカの場合、それどころではないという。
いかにもカフカらしいと私が思っているものは、実際には翻訳で頭を抱えるどころではない。もっと手前の段階で頭を抱えさせられてしまうものだ。どれを翻訳していいかがわからない。どのテクストをどう読めばいいかがわからない。もちろんドイツ語のレベルでだ。誤解してほしくないが、ドイツ語が難しいというのではない。カフカの書くドイツ語は、驚くほどシンプルで読みやすい。そうではなくて、テクストの、いってしまえば〈形〉がわからないのだ。
カフカのテクストには、ようするにいたるところに罠が仕掛けられている可能性がある。誤解を誘うような言葉の使い方が随所でなされている。
まずプロローグでは、カフカの代表作『変身』において、本当に主人公グレゴール・ザムザが変身したのは「虫」だったのか?という根本的な問いが投げかけられる。原文の「Ungeziefer」という表現には、害虫、あるいはネズミなどの「汚らわしい小動物」のような意味合いも含まれているのだという(この部分の翻訳も本によっていろいろなバリエーションがあることが紹介される)。
続く文章で、ザムザは「硬い背中」や「丸っこい茶色の腹」や「ちらちら蠢(うごめ)くたくさんの足」を自分の身体に発見する。どうやら虫らしきものになったことはわかるから、はっきり誤訳とは言えない。だが、6本脚の昆虫ではないだろうし、少なくとも虫の種類は特定できない。つまり、カフカはそれを「どう解釈していいのか分からないように意図して書いている」というのが著者の考えだ。
いたずらに断定するような翻訳は、カフカの狙いから逸れてしまう。いま自分が読んでいるものが何か分からなくなるような状態に読者を導くことが作者の意図であり、それを意訳≒誤訳で単純化してしまうのは、読者の「大切な醍醐味」を奪っているのと同義である……そこまで強い言い方ではないが、そうとも読める内容である。だが、このプロローグは文字どおり、まだ序の口に過ぎない。
カフカが生前に出版した本は7冊。それ以外の作品は、遺稿を預かった友人のマックス・ブロートにより、書籍として体裁を整えられて刊行された。有名な『城』『審判』も死後に出版されたものである。このブロート版には作者以外の編集意図が入りすぎているとして、のちにカフカの遺稿を極力そのままのかたちで活字化した「批判版」、さらに遺稿そのものを図版として掲載した「写真版」まで出版された。そこまで徹底したコレクターズ・アイテムが出版される作家は極めて珍しいと思うが、それだけ強い魅力があるということだろう。
著者は、これらの死後刊行作品を、まさにカフカらしい難物として俎上に載せる。たとえば『城』の主人公Kは、最初は「私」を語り手とする一人称形式で書き進められていたという。原稿をそのまま掲載した「写真版」により、その修正箇所は細かく確認できるようになった。
その突然の「K」の登場以降、しばらく「私」と「K」を混在させたものの、あとはすべて「K」だけで語るようになる。おそらくそのとき前に戻って、一気にそれまで書いていた大量の「私」を消して「K」に変えた。この書き換えで注目すべきは、それに伴う他の修正の少なさだ。語りの視点の転換は、文章の構造に大きな影響を及ぼすはずだが、なぜかその「K」への直し以外に手を加えた様子はほとんど見られない。
行き当たりばったりに書き続けるための鉄則として、おそらくカフカは後戻りしないと決めていた。一回、言葉にしてしまったら、それは極力取り消さない。言葉を発して存在させてしまったら、それは〈そこ〉に〈ある〉。猛スピードで前へ前へと書き進めるには、取り繕いはするが、やり直しはしない。辻褄が合わなければ、苦し紛れに言い訳するとしても、極力なかったことにはしない。
『審判』も、これまた難解な構造を備えた作品だ。カフカは小説の始まりと終わりをまず書いてから、複数冊のノートをパラレルに使い、間を埋める各章を書き進めた。そのため脇道にそれて中断した章がいくつも存在し、後年の書籍化に際しても複数のバージョンが生まれることになった。「批判版」を凌(しの)ぐ完全再現を目指す「写真版」に至っては、ノートごとの分冊スタイルで収録したボックス仕様で出版されたという。
まず、すでにお気づきと思うが、写真版は一般読者にはとうてい読めない代物である。ここでいう一般読者とは、もちろん日本の読者ではなく、ドイツ語圏の読者だ。ようするに、ドイツ語がたとえ読めても、写真版を読みこなすのは非常に難しい、ということだ。私たちが夏目漱石や太宰治の手稿を読むのと同じである。とすれば、写真版は研究者が使用するのに特化したものと見なすことができる。
しかし、その写真版が〈正しい〉となると、研究者しかほんとうのカフカは読めない、ということになってしまう。研究者でない読者は、ほんとうではないものを読んでいるということになる。それでいいのか。
後半では、作家カフカを理解する重要な手がかりとして、カフカが生前に書き送った手紙についても取り上げられる。未発表の原稿を「全部燃やしてほしい」と言い残して亡くなり、結局それらはすべて活字化されたのみならず、婚約者や友人に送った私信までこうして資料として公開された状況を、カフカ自身はどう思うか……などという話はこれまで何度となく論じられてきただろうから割愛するとして、婚約者フェリーツェに宛てた手紙にまつわる考察は、青年カフカの破天荒なパーソナリティーを示すものとして非常に面白い。笑ってしまうほどのデリカシーのなさ、他人との距離感に頓着しない傍若無人さ、そして何より周囲を翻弄する「天才」の肖像が、その文面からはイメージできる。
著者もまたカフカに翻弄されるかのように、終盤になって思いもよらない「危機」に直面する。しかも2回も。
その解決策に気づいたとき、大袈裟ではなく、後悔のあまり腰が砕けた。だったら、それこそとっくの昔、一〇年前に、そうしておくべきだった――。