「宿題を終わらせたよ」という嘘の真理は?
毎月いくつかの本を読んで「ここがおもしろいよ」と伝えるのが私の仕事のひとつなので、この言葉を使うのは禁じ手に思えてなるべく避けていたけれど「読んでよかった人生ベストの本」の一冊として『嘘の真理』を紹介したい。とても居心地が良いのに背骨のあたりがゾクゾクする。この本は、私が10代の頃からずっと胸にしまって誰にも言わずにいた不気味なものをあらわにし、居場所をくれた。同じ体験をする人がきっといるはずだ。
「私にとって嘘というのは、これまで講演会で取り上げた話題のなかでも一番難しい主題ではないかと思います」と、本書の著者・ジャン=リュック・ナンシーはこの本の1ページ目で語る。ナンシーは現代のフランスを代表する哲学者で、たくさんの著作を残し、請われれば世界中のあちこちに赴き、講演会を積極的に行った(そして2021年8月に81歳で世を去った)。
本書もまた、その数ある講演会のうちのひとつを書籍化したものであり、この講演の対象者は8歳以上の子どもたちと、その子どもたちに同伴する大人だった。とてもやさしい言葉で書かれた本なので、ぜひ中高生の方にも読んでいただきたい。
「良い嘘もある?」「嘘をついているのを見抜く方法はある?」「動物は嘘をつく?」「フェイク・ニュースが増えているように思いますが、どうお考えですか?」……子どもと大人たちから飛び出るさまざまな質問に、ナンシーは遊び心を交えながら答えていく。
ナンシーによる「嘘の真理」をテーマにした講演と、その質疑応答、そして訳者の柿並良佑氏による解説と、あとがきで構成された本だ。ナンシーにはじめて出会う人(私だ)の胸に届くような、とても親切なつくりになっている。本書を読むうちに絶対に「ナンシーの本を読まねば……!」となるのだが、とはいえ現代を代表する哲学者の著作。ついていけるのか。そんな初心者の好奇心と尻込みを受け止めるように、読みやすい順の「読書案内」が添えられている。そう、私たちが哲学と聞いて回れ右してしまわないように、そんなもったいないことをしないよう配慮が重ねられている。
……と、この本の器としてのナイスな点を紹介したところで、内容についても少し触れたい。とくにナンシーが「嘘の真理」という自身にとって難しいテーマを、子どもたちと考えるためにどう言葉を選び、哲学の世界へいざなったか。
たとえば「宿題を終わらせたよ」という嘘。毎分毎秒、世界中で飛び交っているであろうこのポピュラーな嘘をもとに、当時77歳のナンシーは、8歳の聴衆に向かって、次のように静かに踏み込んでいく。
嘘が持っている本当の側面、嘘の真理(ほんと)というのは単純ではありません。(中略)私が自分の義務、そう、宿題を終えたかどうか訊かれて、「はい」と答えたとしましょう。それは嘘で、私は宿題をしていない。でも私がそう話しているのは本当です。なぜでしょう? たいていの場合、宿題をしたと言い張るのはそれが面倒だからで、そうやってどうにか宿題をやり過ごせると考えるからです。嘘をつく人、嘘をつく主体の真理とはどのようなものでしょう? (中略)
嘘とは真理を言わないことです。ですが隠されていたり形を変えられていたりする真理、嘘によって捻じ曲げられた真理はおそらく、見きわめるのがいつも簡単というわけにはいきません。
あ、これはただごとじゃないぞと子どもも大人も悟るはずだ。そして自分の頭の中をゆっくり掘り下げていくことの面白さも味わえる。この宿題の嘘は、やがて途方もないものを引っ張り出す。私たちの日常も、社会も、政治も、世界情勢も包むような大きなものだ。
「嘘をつくときは、誰かへの信頼を引っ込めているのです」
ナンシーの講義は、子どもの視点と大人の視点からやさしい言葉とジョークを重ね、重要なものを登場させる。「信頼」だ。嘘と信頼のつながりをこんなふうに明瞭に示す。
嘘をつくときは、誰かへの信頼を引っ込めているのです。みなさんが完全に親を信頼しているなら、授業で学んだことをしっかり覚えていなくても正直に打ち明けられますよね。(中略)嘘をつかないと危うい状況になることもありますが、その場合の危険はおそらく、嘘の作り話をして後でばれてしまうよりは小さいでしょう。(中略)純粋無垢な嘘というものは存在しません。嘘をつくと他人との関係の中で何かが傷つけられます。でもだからといって、嘘つきとしての私にとっての本当のこと、宿題をしないことの理由になっている私の真理が、そう簡単に明らかにできるものでないことに変わりはありません。
この信頼という考え方は、本書を支える大きな屋台骨だ。訳者の柿並先生も「ナンシーの哲学の核心」と呼んでいる。信頼についてナンシーが思考し、語りかける次の文章を読んで私はウワッと泣きそうになった。
もしも最低限必要な信頼がなければ、みなさんはここに来ていないでしょうし、私はみなさんに話しかけることができないはずです。(中略)私はみなさんに対して真実のすべてを、真実だけを話すと誓うことはできません。ですが、もし言葉を話す行為の内に真実味を帯びた何かがなかったら、私たちは話すことなどできなくなります。話す行為は真理の内にあってはじめて可能なものです。(中略)真理というのは、私が話すとき、私が他人の信頼を求めていて、その信頼がすぐに得られるということです。このような信頼が、私たちが人間であり、話す存在だという単純な事実に絶対必要な条件となっているのです。
思考の相撲というか、問いが次の問いを呼ぶ哲学の面白さを楽しむような、ちょっとなまいきな態度で読んでいたが、自分と他者とのつながりや自分のふるまいに深く根ざしている部分にナンシーは手を当てているのだとわかって、とても動揺した。
「十人十色」という言葉の危うさ
ナンシーの切れ味の鋭さとやさしさは質疑応答でも抜群に発揮される。聴衆の子どもたち(と大人たち)と一緒に思考を重ねていくのだ。
「真理の見え方は人によって違うと思います。私にはそのテーブルがピンクに見えるけど、友達には赤く見えるって」という問いに、ナンシーは「どちらかというと赤、かな。友達の方が合ってる。いやいや、そうじゃないよ」と冗談を交えながら、次のように語る。
こういう考え方はすごく広まっていて、「~主義(イスム)」の付いた名前で呼ぶことができる。「相対主義(relativisme ルラティヴィスム)」とか「主観主義(subjectivisme スュブジェクティヴィスム)」というもので、それによると「誰にでもその人の真理がある〔十人十色〕」らしい。このフレーズはよく知られているけど、とても危険だよ。(中略)
この言い方がとても危険なのは、色んな意味に取ることができるからなんだな。もし私たちが主観主義(スュブジェクティヴィスム)に則って、自分の損得でしか物事を見ず、もしも真理というのが実は際限なく真理が増えていくことだとしたら、そもそも真理について語ることすらできなくなってしまう。
人の考え方や感じ方を尊重することと「十人十色ですね」で世の中を切り刻む乱暴さは似ているようでまったく違うことを思い出す。じゃあ真理ってなんなんですかナンシー先生! ……と、安易に答えを求めたくなるが、ナンシーはもっと良い答えを私にくれた。
私たちが真理と呼んでいるのは──事実の真理、つまり科学的方法で測定された真理でないとすれば──いつも何か絶対に個人的なものかもしれないけど、でも目指しているのはそれを分かち合うってことができるってことだよ。好みにかかわる真理、小さくて大したことのない真理だって分かち合うことができる。
説明をし、分かち合うこと。この講義でナンシーが実践したことそのものだ。
手に取るたびに、いろんなページでめまいを起こしそうになる本だ。ちなみに昨夜クラッときたのはこちら。もう、絶対に絶対に、ナンシーの『恋愛について』を早く読まなきゃと思った。
身を任せるくらい人を信頼するときにはいつでも危険が伴います。誰かを好きになったら、安心して「もうこれで大丈夫」なんて思ったりできないでしょう。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori