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2025.01.09

レビュー

われわれは「ほんとうのカフカ」を何も知らなかった! カフカの実態を明かす衝撃の書

はたして我々は「ほんとうに」カフカを読んだことがあるのだろうか?

外国文学をよく読む人なら、カフカにかぎらず、似たような疑念にとらわれた覚えはあるだろう。日本語に翻訳されたものを読んで、はたして作品を正しく読んだことになるのか? この表現は原語のニュアンスをちゃんと汲んでいるのか? 原書に触れなければ、厳密には読んだとは言えないのではないか? これは「外国語翻訳の限界」とか「誤訳の可能性」といった問題からくる若干パラノイア的な葛藤だが、カフカの場合、それどころではないという。
いかにもカフカらしいと私が思っているものは、実際には翻訳で頭を抱えるどころではない。もっと手前の段階で頭を抱えさせられてしまうものだ。どれを翻訳していいかがわからない。どのテクストをどう読めばいいかがわからない。もちろんドイツ語のレベルでだ。誤解してほしくないが、ドイツ語が難しいというのではない。カフカの書くドイツ語は、驚くほどシンプルで読みやすい。そうではなくて、テクストの、いってしまえば〈形〉がわからないのだ。
一体、どういうことなのか。本書は、カフカ作品を読むこと自体の難しさ、その難しさこそが面白さに直結していることを詳(つまび)らかにした刺激的な1冊である。著者は『新しいカフカ 「編集」が変えるテクスト』『カフカらしくないカフカ』などの著書があるドイツ文学研究者の明星聖子。作家カフカの一筋縄ではいかない作風や執筆スタイル、翻訳上の諸問題にも触れつつ、編集文献学の研究者でもある著者は、原書・訳書の編集コンセプトにまで踏み込んだ分析を展開する。
カフカのテクストには、ようするにいたるところに罠が仕掛けられている可能性がある。誤解を誘うような言葉の使い方が随所でなされている。
本書自体にも、カフカ作品ほどではないにしろ、そう匂わせるミステリアスなところがある。読み進めていくうちに思わず「罠か?」と身構えてしまったり(それがカフカを論じる本の宿命なのかもしれないが)、けっこう重要な情報が後から開示されたりするので、ドキドキしながら楽しめること請け合いだ。なお、本書を最後まで読めば、それらのサスペンスからは気持ちよく解き放たれるので、ご安心を。

まずプロローグでは、カフカの代表作『変身』において、本当に主人公グレゴール・ザムザが変身したのは「虫」だったのか?という根本的な問いが投げかけられる。原文の「Ungeziefer」という表現には、害虫、あるいはネズミなどの「汚らわしい小動物」のような意味合いも含まれているのだという(この部分の翻訳も本によっていろいろなバリエーションがあることが紹介される)。

続く文章で、ザムザは「硬い背中」や「丸っこい茶色の腹」や「ちらちら蠢(うごめ)くたくさんの足」を自分の身体に発見する。どうやら虫らしきものになったことはわかるから、はっきり誤訳とは言えない。だが、6本脚の昆虫ではないだろうし、少なくとも虫の種類は特定できない。つまり、カフカはそれを「どう解釈していいのか分からないように意図して書いている」というのが著者の考えだ。

いたずらに断定するような翻訳は、カフカの狙いから逸れてしまう。いま自分が読んでいるものが何か分からなくなるような状態に読者を導くことが作者の意図であり、それを意訳≒誤訳で単純化してしまうのは、読者の「大切な醍醐味」を奪っているのと同義である……そこまで強い言い方ではないが、そうとも読める内容である。だが、このプロローグは文字どおり、まだ序の口に過ぎない。

カフカが生前に出版した本は7冊。それ以外の作品は、遺稿を預かった友人のマックス・ブロートにより、書籍として体裁を整えられて刊行された。有名な『城』『審判』も死後に出版されたものである。このブロート版には作者以外の編集意図が入りすぎているとして、のちにカフカの遺稿を極力そのままのかたちで活字化した「批判版」、さらに遺稿そのものを図版として掲載した「写真版」まで出版された。そこまで徹底したコレクターズ・アイテムが出版される作家は極めて珍しいと思うが、それだけ強い魅力があるということだろう。

著者は、これらの死後刊行作品を、まさにカフカらしい難物として俎上に載せる。たとえば『城』の主人公Kは、最初は「私」を語り手とする一人称形式で書き進められていたという。原稿をそのまま掲載した「写真版」により、その修正箇所は細かく確認できるようになった。
その突然の「K」の登場以降、しばらく「私」と「K」を混在させたものの、あとはすべて「K」だけで語るようになる。おそらくそのとき前に戻って、一気にそれまで書いていた大量の「私」を消して「K」に変えた。この書き換えで注目すべきは、それに伴う他の修正の少なさだ。語りの視点の転換は、文章の構造に大きな影響を及ぼすはずだが、なぜかその「K」への直し以外に手を加えた様子はほとんど見られない。
著者は『城』冒頭のシーンのいくつかを、「K」を「私」に書き換えて引用する。するとまた別の解釈が生まれ、作品の新たな一面が見えてくる……このくだりはまるでミステリー小説のように刺激的だ。さらに『城』の原稿には、カフカ独特の執筆スタイルが少なからず認められるという。打ち消し線を入れた修正箇所と、あえて直していない箇所から浮かび上がるものとは何か。
行き当たりばったりに書き続けるための鉄則として、おそらくカフカは後戻りしないと決めていた。一回、言葉にしてしまったら、それは極力取り消さない。言葉を発して存在させてしまったら、それは〈そこ〉に〈ある〉。猛スピードで前へ前へと書き進めるには、取り繕いはするが、やり直しはしない。辻褄が合わなければ、苦し紛れに言い訳するとしても、極力なかったことにはしない。
勢いに任せて奔放に書き進めながら、おそらくそこには常に「どう読ませたいか」という意図――「読む者を混乱させたい」とか「書かれている内容や登場人物の言動に不信感を抱いてほしい」といった捻(ねじ)れた狙いであっても――が細部にわたって存在した。そこに、没後100年経っても読者を惹きつける魅力、天性の作家としての才能があるのではないかとも思えてくる。

『審判』も、これまた難解な構造を備えた作品だ。カフカは小説の始まりと終わりをまず書いてから、複数冊のノートをパラレルに使い、間を埋める各章を書き進めた。そのため脇道にそれて中断した章がいくつも存在し、後年の書籍化に際しても複数のバージョンが生まれることになった。「批判版」を凌(しの)ぐ完全再現を目指す「写真版」に至っては、ノートごとの分冊スタイルで収録したボックス仕様で出版されたという。
まず、すでにお気づきと思うが、写真版は一般読者にはとうてい読めない代物である。ここでいう一般読者とは、もちろん日本の読者ではなく、ドイツ語圏の読者だ。ようするに、ドイツ語がたとえ読めても、写真版を読みこなすのは非常に難しい、ということだ。私たちが夏目漱石や太宰治の手稿を読むのと同じである。とすれば、写真版は研究者が使用するのに特化したものと見なすことができる。
しかし、その写真版が〈正しい〉となると、研究者しかほんとうのカフカは読めない、ということになってしまう。研究者でない読者は、ほんとうではないものを読んでいるということになる。それでいいのか。
こうなると、カフカの作品そのものだけでなく、出版物の編集について考察する必要も否応なく生じてくる。日本で刊行されてきたさまざまな翻訳版に対しても、著者はその編集方針のあり方について、厳しい批判も含めて容赦なく論じていく。このあたりはカフカ・ファンのみならず、出版業界で働く人間も必読の内容だろう。

後半では、作家カフカを理解する重要な手がかりとして、カフカが生前に書き送った手紙についても取り上げられる。未発表の原稿を「全部燃やしてほしい」と言い残して亡くなり、結局それらはすべて活字化されたのみならず、婚約者や友人に送った私信までこうして資料として公開された状況を、カフカ自身はどう思うか……などという話はこれまで何度となく論じられてきただろうから割愛するとして、婚約者フェリーツェに宛てた手紙にまつわる考察は、青年カフカの破天荒なパーソナリティーを示すものとして非常に面白い。笑ってしまうほどのデリカシーのなさ、他人との距離感に頓着しない傍若無人さ、そして何より周囲を翻弄する「天才」の肖像が、その文面からはイメージできる。

著者もまたカフカに翻弄されるかのように、終盤になって思いもよらない「危機」に直面する。しかも2回も。
その解決策に気づいたとき、大袈裟ではなく、後悔のあまり腰が砕けた。だったら、それこそとっくの昔、一〇年前に、そうしておくべきだった――。
一体、何が起きたのか? 気になる方はぜひ本書を手に取って確かめていただきたい。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

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