今日のおすすめ

PICK UP

2024.11.15

レビュー

殺人、心中、不義密通……長崎奉行の「犯科帳」が映し出す江戸時代のリアル

「犯科帳」とは何か? それは江戸時代、各藩・各地で司法や行政を行った「幕府の出張所」=奉行所において記された、公判記録の名称のひとつである。こうした史料は全国に残っていて当然と思われるかもしれないが、実は現存するものは限りなく少ない。出所が明らかな公文書としては、近年になって最高裁判所の倉庫で発見された江戸幕府の判例集「御仕置廉書(おしおきかどがき)」、長崎奉行所の「犯科帳」、同じく長崎の歴史研究施設に保存されている「罰責(ばっせき)」の3点しか確認されていないという。

このうち「犯科帳」は計145冊が現存し、寛文6年(1666年)から慶応3年(1867年)にかけて、約200年間にわたる判例が記載された貴重な資料である。池波正太郎の時代小説シリーズ「鬼平犯科帳」のタイトルの元ネタとしても知られている(タイトルをつけたのは「オール讀物」連載当時の担当編集者だった花田紀凱)。本書はその「犯科帳」原本をフィーチャーし、江戸時代における市井の犯罪傾向、各種処罰からみる当時の法制度や社会倫理、そして長崎という町の特殊な個性などを浮き彫りにしていく。各判例は読みやすく現代語に意訳されており、古文書を読み慣れていない読者にとっては非常にありがたい。

膨大な「裁き」のなかから本書で取り上げられるのは、窃盗・心中・贋金作り・不義密通・その果ての刃傷沙汰など、実に多種多様にして大小を問わない犯罪の数々だ。ドラマチックな展開に目を見張るような例はむしろ少なく、言ってしまえば「平凡」で「つまらない」とさえ思えるケースも多々含まれている。しかし、だからこそ当時の「普遍的犯罪心理」ともいうべきもの、厳しいモラルや社会構造のなかに生きながら「魔が差す」「一線を越える」民衆の心理傾向のようなものが見えてくる。

また、鎖国政策を貫いた江戸時代において、例外的に海外との通商窓口の役割を果たした長崎という土地柄ならではの犯罪――抜け荷(密輸)や外国人との不正取引の横行についての記述も興味深い。ここにも「何度となく似たような犯罪が繰り返される」パターンが存在し、抑圧されればされるほど抗わずにはいられない人間の本能も感じずにいられない。

長崎という土地の特殊性は、幕府から「厄介者扱い」されていたかのような記述からもうかがえる。こうした支配者側からの偏見まじりの抑圧と、長年にわたり蓄積された長崎住民のわだかまりが、のちの討幕運動に繋がる革命の機運を育んだのではないかとも思えてくる。
寛政改革を行った松平定信(まつだいらさだのぶ)は、「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、「長崎之地、ことに乱れて」と、長崎支配のむずかしさ、長崎奉行の人事のむずかしさを将軍に説いた(木村直樹『長崎奉行の歴史』)。
松平貴強も、長崎の支配に苦心した長崎奉行の一人であった。赴任先の長崎で死亡した長崎奉行が数人いるが、彼もそのうちの一人である。松平はその死の直前の寛政一一(一七九九)年一一月、市中・郷中の者へ知らせるようにと「公事出入心得方書付(くじでいりこころえかたかきつけ)」(「長崎町乙名手控(ながさきまちおとなてびかえ)」)をまとめている。
松平貴強が残した、ほとんど愚痴のような「長崎の仕癖(しくせ)」の内容は、本書を手に取って確かめてもらいたい。彼だけでなく、歴代の長崎奉行にとって、かの地の民衆は「幕府の定めた法令でさえも軽んじる傾向がある」と見られていた。そんな乱暴な認識に思わず納得してしまう判例も、本書には記されている。
屋敷番が八百屋・長太郎を捕らえて調べたところ、戸と障子は前日、長崎奉行所の立山(たてやま)役所の空き屋敷から盗んだものだと自白した。野菜を買う元手がなく、盗み物を売り払って元手を作ろうと、立山役所隣の安禅寺(あんぜんじ)境内から塀を越えて立山役所に忍び入り持ち出し、安禅寺境内に隠したというのである。
空き家とはいえ、奉行所の建物から家具を盗み出し、商売の元手にしようと企てるというのは、なかなか大胆不敵な犯行である。また、延享4年(1747年)に起きた新地蔵(長崎の新地町に造られた貨物倉庫)での窃盗事件も、ダイナミックな展開で印象に残る。最終的に獄門3名、死罪1名を出すほどの大捕物となったが、それだけでは終わらず、意外な証言からさらに別の贋金作り事件が発覚する。
じつはこの捜査がはじまった時、もう一人疑われた人物がいた。(中略)理由は不明だが疑わしいとの噂があるので調べたのだが、この事件には関係なかった。しかし、彼の住まいに厄介になっていた肥後国玉名郡上沖洲(かみおきのす)村(現・熊本県玉名(たまな)郡)からの旅人・宇右衛門(二四歳)が疑わしい銀札を所持していることが明らかになった。
若き仏師だった宇右衛門は、木彫りの腕前を買われて偽銀札の原盤(印形)を40枚も作り、これまた多くの共犯者が捕縛され極刑を受けた。最終的には宇右衛門を含む全員が自訴(自首)したが、当時は刑の軽減を期待して自訴する者、あるいは苦痛に満ちた尋問や刑罰から免れるために自害する罪人も多かったという。これも非常に人間くさい犯罪者心理と言えよう。

著者は過去の「犯科帳」研究書のように、個々の判例を取り上げるだけでなく、捜査中に浮上した新たな事件や、逃亡者の別件逮捕、別々に見えた事件との意外なつながりなどもつぶさに拾い上げ、事件全体を復元することに注力したという。その面白さが見事に描出されているのが、この新地蔵窃盗事件と偽銀札事件のくだりではないだろうか。

現代とは異なる「江戸時代の罪と罰」を如実に表す判例も興味深い。そのひとつが「不義密通」である。夫婦関係以外の男女の仲(自由恋愛)が認められていなかった時代、その処罰の重さ、残酷さも現在では考えられないものだ。たとえば寛文12年(1672年)の判例では、16歳の「みつ」という少女をめぐり、29歳の長右衛門、32歳の平右衛門という2人の男が喧嘩沙汰を起こして捕まった(「みつ」は八左衛門、三郎兵衛といった男たちとも関係しており、平右衛門は彼女の密通を長右衛門に注進した八左衛門の友人に過ぎなかった)。その判決はあまりにも厳しい。
この傷害事件がきっかけとして密通の件が明らかになり、平右衛門は「みつ」と通じてはいなかったが長右衛門とともに喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)として刎首獄門、八左衛門は懲らしめとして牢舎で陰茎切(いんけいぎり)、「みつ」も牢舎でぎ刑(鼻そぎ)に処された。
刎首とは、首をはねること。深い友情を表す「刎頸(ふんけい)の交わり」という中国の故事成語があるが、まさにそれを地で行ってしまったような事件である。女性への刑罰として「鼻そぎ」を課すところも強烈だ。

享保8年(1723年)には、源七という男がかねてより密書を取り交わしていた「せき」という娘を、4人の仲間を使って奪い取るという事件が起きた。長崎には「嫁盗(よめぬすみ)」という慣習があり、大人数で申し合わせて「嫁盗み」と唱えながら女性を連れ出すことがあったという。すごい慣習だが、「せき」の父親である次郎左衛門はこれに対して法の裁きを求めた。その結果はこれまた残酷である。
次郎左衛門は源七に「せき」を返すようたびたび申し入れたが応じてもらえず、奉行所に訴え出た。詮議の上、江戸に届けると、源七に五島への遠島が命じられた。
一方の「せき」だが、両親から何度も帰ってくるようにと言われても言うことを聞かなかった。長崎奉行所ははなはだ不孝のいたりであると江戸に伝えた。江戸の返答は、傾城町
(けいせいまち)(遊郭)の者たちに渡すようにとのことであった。長崎奉行は丸山町、寄合町役人を呼び出して「せき」を遊女にするように命じた。
誘拐された者を役所が遊郭送りにするという不条理な判決も、もちろん現在ではありえない。遊郭、あるいは被差別部落などの「隔離された土地」へ厄介払いするという刑罰も、本書ではいくつか紹介される。階級差別を導入した刑罰はまさしく時代性を表し、社会全体の様相を浮き彫りにするものでもある。

絶対的権威である幕府に逆らうことは到底許されない時代だったが、それでも声を上げる者はいた。寛政3年(1791年)、長崎の住民2名が江戸で老中・松平定信に駕籠訴(かごそ/駕籠にすがり訴状を提出すること)を強行した。訴状の内容は明らかにされていないが、著者は「犯科帳」の記録から、彼らの目的は当時の長崎奉行・水野忠通(みずのただゆき)とその家来・松山惣右衛門(まつやまそうえもん)の非道を訴えることだったのでは、と推測する。
二人の越訴への幕府の対応はつぎのようなものであった。幕府はだれからも申し立てられなくても役人の勤務ぶりは日頃からよく調べている。ましてや家来筋の者の不埒が申し立てられたなら、即主人、そのほかその地の役人を糺すことを必ずする。にもかかわらず直接訴え出た今回の行為は公儀に対して不敬極まりないことである。かくして二人は松平定信の下知により江戸構長崎払(江戸追放、長崎払)を命じられた。(中略)いっぽう水野忠通は、翌年二月二五日に閉門(へいもん)となった。松山惣右衛門の処分は、不明。二人の駕籠訴を行った原因となった事態を幕府も認めたのである。
閉門とは、武士や僧侶といった身分の高い者に対する刑罰のひとつで、屋内に閉じ込めて外出を禁じる謹慎措置のこと。2人の直訴がなければ幕府が重い腰を上げなかったことも事実だろうに、建前として「お上に逆らうべからず」というルールを突きつけ、偉そうな叱り文句とともに処罰を下すところに、権力のバカバカしさ、みっともなさを覚えずにいられない。国民の信頼をどんどん失ってなお居丈高に振る舞い、恩着せがましく方針転換を行う現代の政治家の姿にも通じるのではないだろうか。

終盤では、おそらく「記録されなかった罪」「裁かれなかった罪」もあったであろうこと、現存する「犯科帳」に史料としての不正確性があることも示される。それでも「犯科帳」が貴重な資料であること、本書がその優れた研究書であることには変わりない。知っているようで知らない江戸社会の実態を、「犯罪」と「罰」というダークで魅惑的な視点で学びたい読者には、ぴったりの1冊である。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

おすすめの記事

2024.11.11

レビュー

花街はなぜ生まれ、いつ消えた? 人間たちの欲望の正体と、近代都市形成の秘密

2022.06.14

レビュー

江戸の町人、武士はどんな家に住んでいた? 間取り図が満載!江戸の町の住宅事情

2021.10.28

レビュー

人は死んだらまず怨霊になる。熊野の怪異に出会った著者による『日本人の死生観』

最新情報を受け取る