このうち「犯科帳」は計145冊が現存し、寛文6年(1666年)から慶応3年(1867年)にかけて、約200年間にわたる判例が記載された貴重な資料である。池波正太郎の時代小説シリーズ「鬼平犯科帳」のタイトルの元ネタとしても知られている(タイトルをつけたのは「オール讀物」連載当時の担当編集者だった花田紀凱)。本書はその「犯科帳」原本をフィーチャーし、江戸時代における市井の犯罪傾向、各種処罰からみる当時の法制度や社会倫理、そして長崎という町の特殊な個性などを浮き彫りにしていく。各判例は読みやすく現代語に意訳されており、古文書を読み慣れていない読者にとっては非常にありがたい。
膨大な「裁き」のなかから本書で取り上げられるのは、窃盗・心中・贋金作り・不義密通・その果ての刃傷沙汰など、実に多種多様にして大小を問わない犯罪の数々だ。ドラマチックな展開に目を見張るような例はむしろ少なく、言ってしまえば「平凡」で「つまらない」とさえ思えるケースも多々含まれている。しかし、だからこそ当時の「普遍的犯罪心理」ともいうべきもの、厳しいモラルや社会構造のなかに生きながら「魔が差す」「一線を越える」民衆の心理傾向のようなものが見えてくる。
また、鎖国政策を貫いた江戸時代において、例外的に海外との通商窓口の役割を果たした長崎という土地柄ならではの犯罪――抜け荷(密輸)や外国人との不正取引の横行についての記述も興味深い。ここにも「何度となく似たような犯罪が繰り返される」パターンが存在し、抑圧されればされるほど抗わずにはいられない人間の本能も感じずにいられない。
長崎という土地の特殊性は、幕府から「厄介者扱い」されていたかのような記述からもうかがえる。こうした支配者側からの偏見まじりの抑圧と、長年にわたり蓄積された長崎住民のわだかまりが、のちの討幕運動に繋がる革命の機運を育んだのではないかとも思えてくる。
寛政改革を行った松平定信(まつだいらさだのぶ)は、「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、「長崎之地、ことに乱れて」と、長崎支配のむずかしさ、長崎奉行の人事のむずかしさを将軍に説いた(木村直樹『長崎奉行の歴史』)。
松平貴強も、長崎の支配に苦心した長崎奉行の一人であった。赴任先の長崎で死亡した長崎奉行が数人いるが、彼もそのうちの一人である。松平はその死の直前の寛政一一(一七九九)年一一月、市中・郷中の者へ知らせるようにと「公事出入心得方書付(くじでいりこころえかたかきつけ)」(「長崎町乙名手控(ながさきまちおとなてびかえ)」)をまとめている。
屋敷番が八百屋・長太郎を捕らえて調べたところ、戸と障子は前日、長崎奉行所の立山(たてやま)役所の空き屋敷から盗んだものだと自白した。野菜を買う元手がなく、盗み物を売り払って元手を作ろうと、立山役所隣の安禅寺(あんぜんじ)境内から塀を越えて立山役所に忍び入り持ち出し、安禅寺境内に隠したというのである。
じつはこの捜査がはじまった時、もう一人疑われた人物がいた。(中略)理由は不明だが疑わしいとの噂があるので調べたのだが、この事件には関係なかった。しかし、彼の住まいに厄介になっていた肥後国玉名郡上沖洲(かみおきのす)村(現・熊本県玉名(たまな)郡)からの旅人・宇右衛門(二四歳)が疑わしい銀札を所持していることが明らかになった。
著者は過去の「犯科帳」研究書のように、個々の判例を取り上げるだけでなく、捜査中に浮上した新たな事件や、逃亡者の別件逮捕、別々に見えた事件との意外なつながりなどもつぶさに拾い上げ、事件全体を復元することに注力したという。その面白さが見事に描出されているのが、この新地蔵窃盗事件と偽銀札事件のくだりではないだろうか。
現代とは異なる「江戸時代の罪と罰」を如実に表す判例も興味深い。そのひとつが「不義密通」である。夫婦関係以外の男女の仲(自由恋愛)が認められていなかった時代、その処罰の重さ、残酷さも現在では考えられないものだ。たとえば寛文12年(1672年)の判例では、16歳の「みつ」という少女をめぐり、29歳の長右衛門、32歳の平右衛門という2人の男が喧嘩沙汰を起こして捕まった(「みつ」は八左衛門、三郎兵衛といった男たちとも関係しており、平右衛門は彼女の密通を長右衛門に注進した八左衛門の友人に過ぎなかった)。その判決はあまりにも厳しい。
この傷害事件がきっかけとして密通の件が明らかになり、平右衛門は「みつ」と通じてはいなかったが長右衛門とともに喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)として刎首獄門、八左衛門は懲らしめとして牢舎で陰茎切(いんけいぎり)、「みつ」も牢舎でぎ刑(鼻そぎ)に処された。
享保8年(1723年)には、源七という男がかねてより密書を取り交わしていた「せき」という娘を、4人の仲間を使って奪い取るという事件が起きた。長崎には「嫁盗(よめぬすみ)」という慣習があり、大人数で申し合わせて「嫁盗み」と唱えながら女性を連れ出すことがあったという。すごい慣習だが、「せき」の父親である次郎左衛門はこれに対して法の裁きを求めた。その結果はこれまた残酷である。
次郎左衛門は源七に「せき」を返すようたびたび申し入れたが応じてもらえず、奉行所に訴え出た。詮議の上、江戸に届けると、源七に五島への遠島が命じられた。
一方の「せき」だが、両親から何度も帰ってくるようにと言われても言うことを聞かなかった。長崎奉行所ははなはだ不孝のいたりであると江戸に伝えた。江戸の返答は、傾城町(けいせいまち)(遊郭)の者たちに渡すようにとのことであった。長崎奉行は丸山町、寄合町役人を呼び出して「せき」を遊女にするように命じた。
絶対的権威である幕府に逆らうことは到底許されない時代だったが、それでも声を上げる者はいた。寛政3年(1791年)、長崎の住民2名が江戸で老中・松平定信に駕籠訴(かごそ/駕籠にすがり訴状を提出すること)を強行した。訴状の内容は明らかにされていないが、著者は「犯科帳」の記録から、彼らの目的は当時の長崎奉行・水野忠通(みずのただゆき)とその家来・松山惣右衛門(まつやまそうえもん)の非道を訴えることだったのでは、と推測する。
二人の越訴への幕府の対応はつぎのようなものであった。幕府はだれからも申し立てられなくても役人の勤務ぶりは日頃からよく調べている。ましてや家来筋の者の不埒が申し立てられたなら、即主人、そのほかその地の役人を糺すことを必ずする。にもかかわらず直接訴え出た今回の行為は公儀に対して不敬極まりないことである。かくして二人は松平定信の下知により江戸構長崎払(江戸追放、長崎払)を命じられた。(中略)いっぽう水野忠通は、翌年二月二五日に閉門(へいもん)となった。松山惣右衛門の処分は、不明。二人の駕籠訴を行った原因となった事態を幕府も認めたのである。
終盤では、おそらく「記録されなかった罪」「裁かれなかった罪」もあったであろうこと、現存する「犯科帳」に史料としての不正確性があることも示される。それでも「犯科帳」が貴重な資料であること、本書がその優れた研究書であることには変わりない。知っているようで知らない江戸社会の実態を、「犯罪」と「罰」というダークで魅惑的な視点で学びたい読者には、ぴったりの1冊である。