この本の主人公たちは、いずれも決して安直な生き方を選ばず、仏教者としての道をストイックに模索し、彼らなりに本道を極めた人々として紹介される。同時に、またはそれゆえに、旧態依然としたルールや慣習に背を向け、安易な道を歩む仏教者を真っ向から否定した。彼らに共通するのは「自他への厳しさ」であろうか。
血のにじむような修行の果てに大悟に至り、その後も権威やしきたりに惑わされることなく己の禅道を貫いた盤珪(1622~1693)。武士として徳川家に仕えたのち、42歳で出家し、「二王禅」を提唱した正三(1579~1655)。長年にわたる修行の旅を経て、寺を持たず清貧を貫き、数多くの詩と歌を残した良寛(1758~1831)。厳しい修行の末に大悟し、師に認められ、天皇家から民衆に至るまで「活き仏」と崇められながらも、風狂の禅道を晩年まで徹底した一休(1394~1481)。良寛や一休は一般的知名度も高いが、本書を通して彼らのパブリックイメージとは異なる面を初めて知る人もいるだろう。
トップを飾る盤珪は、まさに「本物の求道者の凄み」を体現する存在だ。幼い頃に読んだ儒教の経書『大学』に記された「明徳」という語に疑問を抱き、そこから彼の長い修行時代がスタートする。明徳とは何かという問いに納得のいく答えを得るために、寝食を忘れ、瀕死の状態にまで自らを追いつめ、座布団がすり減るまで坐禅に打ち込んだという逸話が壮絶だ。そんなふうに思索と自問を徹底して実践し、ついに悟りを得た者だからこそ、決まりきった問答集(公案)をただ覚えるだけの安易な修行を真っ向から否定する。「ではどうすればいいのか」という弟子たちの問いに対し、千本ノックのごとく根本的回答を投げ返す盤珪の言葉の歯切れよさは、もはや痛快だ。まるで「教え」と「学習」の真の意味を問う寓話のようである。
2番目に登場する鈴木正三は、徳川家に仕える旗本として関ケ原の戦いにも参加し、42歳のときに禅僧に転身。後年、島原の乱をおこしたキリシタンの教化政策に努めた経歴を持つ(当時の天草の代官を務めていたのが弟の鈴木重成だった)。言うなれば洗脳役として駆り出されるほど、並々ならぬ強固な信心、影響力の持ち主だったことが推察されよう。二王や不動の仏像を手本にして修行する「二王禅」を提唱した理由にも、その性格が表されている。
近年は、仏教者がただ柔和になり、殊勝になり、無欲になって、たしかに人間はよくなった。しかしまさにそのことが正三の気にいらない。正三は仏法の怨霊となるほどの勇猛心で修行させる仏教者がないことを歎く。この歎きから「二王禅」が出る。
大乗仏教が「在家仏法」になるのは当然の筋道であるが、正三はわが徳川初期の社会で、これを自己の禅思想から自覚的に提唱した先覚者であったといえる。在家の世俗的生活がそのまま仏道修行であると、はっきり自覚的に説いたところに、かれの禅思想の近代性がある。
良寛が残した漢詩のなかには、堕落した仏教界、そして自分自身への激しい慨嘆が込められたものも多くある。著者はそれらを選りすぐった理由をこう述べ、禅者としての実像を明らかにする。
内にこうしたきびしい自省があり、外に仏教界の現状を深くいきどおり、三界の迷いの子を憐れむ、この気概のはげしさがあってこそ、始めて晩年のこの人の、あの慈愛に満ちた温かな和(やわ)らぎの底に秘められた熱火がわかる。良寛のあの温かさと和らぎとが、こうしたかれの道に対する厳しさにしっかりと根をすえていることを、良寛の詩はなによりもはっきりと示している。
ここにおいて良寛は、善も悪も、その済民の悲願さえも一切を放下して、ただあるがままの自然に随順して、「苔水のあるかなきかに」すみわたる草庵の生活に自己を没入していったのである。これを敗北だとか退嬰的(たいえいてき)だとか、評する者は評せよ。笑う者は笑え、そしる者はそしれ。一見奇嬌にさえ見えるその言行の中に、「悲しいばかり真面目な、真剣な、うそのない」良寛その人の涙があった。そこに、玲瓏玉のごとき人間良寛の、あの温(ぬく)もりと潤(うるお)いと和(やわ)らぎの秘密がある。ひっきょう良寛は慈悲の人であった。
禅牀に坐して艶詩を咏じ、みずから狂雲子と号したが、けっして狂人ではない。一休その人の本領は、実頭の人、至誠(まこと)の人、真情の人、純一無雑の天然の自由人であったが、それを真に見抜くことはなかなかむずかしい、と沢庵は言うのだ。
著者もまた一休の自由奔放な生きざまに、道を究めた宗教者の肖像を見る。その言動には、単なる生臭坊主とは異なる苛烈さ、茨の道に自ら飛び込んでいくような迫力がある。破戒行為によって信仰の篤さや求道心を体現する逸話は、確かに世界中に存在するものでもある。
著者は本来、この4人を「異流」ではなく「偉流」として語りたかったのだという。彼らの物語に、読者は信心の有無にかかわらず、「うそのない生き方とは何か」と考えさせられるはずだ。禅の知識があまりなくても、気負わず手に取ってほしい一冊である。