口永良部島は危険レベル5の避難、阿蘇山、桜島は危険レベル3の入山規制、西之島は入山危険、危険レベル2の火口周辺規制は雌阿寒岳、吾妻山、草津白根山、浅間山、御嶽山、箱根山、諏訪之瀬島、霧島山(新燃岳)、火口周辺危険は硫黄島と、いまさらながらですが日本列島は火山列島だということを私たちに感じさせます。警戒レベルを図示した日本地図を見るとそれが実感できます。
そして、この本、おそろしいくらい正直に書かれた“火山”についての本だと思います。
「火山学者とは、火山噴火が起きた時、その原因について解説し、活動の予測が仕事だと思われているようです。それはほんの一部であって、火山を通して地球の営みの原因に迫るのが目的なのです」の言葉通り、著者たちは“自然=地球”の大いなる活動に耳傾けながら私たちがどのように“火山とつきあう”べきかを127の項目にわたってきわめて平易に伝えています。
火山とはいったいどのようなものなのか。
「火山は三つの場所にできます。海溝沿い、中央海嶺、ホットスポットです」
その火山の下ではなにが起こっているのか。地震と火山とはどのような関係があるのか。マグマとはなにか、水蒸気爆発とはなにか、噴き出してくるものはなにか、それはどのような性質を持ち私たちの生活に影響をあたえてくるものなのか……と多岐にわたって項目を整理し、火山の正体を解き明かしていきます。
けれど火山活動のすべてを私たちは知っているわけではありません。
「現時点では物理的なメカニズムというよりも「統計的に見て」そのように見えるということです」とあり、噴火の間隔の問いにも「噴火の間隔の規則性については、残念ながら現在、そのしくみを十分に説明できているわけではありません」と。
これはどういうことを意味しているのでしょうか。
「自然は複雑でパワフルです。私たちはまだまだ、火山をコントロールできないのです」
まずその事実から始めようと言っているのではないでしょうか。
そしてその姿勢を忘れずに、火山の危険・災害をいかに防げばいいのか、それらからどのように身を守るか、もしも登山中に噴火にあった場合どのようにすればいいのかにいたるまで、この本はとても丁寧に考え、提案しています。
いたずらに恐れさせるだけではなく、けれども怖れを忘れずに個々の火山と対すること、人間の知識や経験に溺れ、根拠のない安心を与えることもなく記されたアンサーはどれも明快に語られて火山を、自然を語る上でも必読なものだと思います。
また、身近の火山から始められたこの本では、なにか“火山一般という山はなく、あるのは個々の火山だ”と著者たちは言っているようにも思えます。人間の過去の記録を含む経験で推測するしかできないもの、そしてそれらを超えるものもあると言ってもいます。
そう記すこの本の著者たちの姿にはとても信頼と安心を感じます。
「知れるを知るとなし、知らざるを知らざるとせよ、これ知るなり」(貝塚茂樹訳)とは『論語』の有名な一説ですが、この本の著者たちは孔子の教え通りの人たちだったとも思えました。これこそが知を信頼する姿だと思います。
私たちがある災害や事故にあった時、そこから何かを得たと思っても、それで原因などのすべてを理解したことには決してなりません。津波も地震もそして火山もその脅威にさらされても、それを経験することだけでは“自然=地球”のすべてを知ったことにはなりません(原発事故は自然災害ではありませんが同様だと思います)。
そしてそれを踏まえて、火山列島日本でどのように山々とつきあうべきかを提案してもいるのです。著者たちには災害防止だけで終わらせてはいけないというなにか良心のようなものすらうかがえる叙述がいたるところにあります。
もう一つ、誤解をおそれずに言えば“火山の魅力”も語っているように思います。もちろん温泉等の直接の恩恵だけではありません。西之島は大陸誕生の歴史を教えてくれています。
かつての三原山の噴火の時には「多くの人がオレンジ色のマグマの見物に押しかけました。しかし、魅せられたように溶岩湖に身を投げる人が続出し、大きな社会問題」となったといいます。
火山は人を魅するところがあるものなのでしょう。確かに噴火の映像は自然の驚異と脅威を私たちに感じさせます。もしかするとヘルダーリンが書いたようにエトナ山の火口に身を投げた古代ギリシャの哲学者エンペドクレスも、それに魅せられた一人なのかもしれません。そんなこともふと想像してしまいました。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。