ページを開く前に、タイトルを何度も読んだ。言外に「一人ではないよ」と言われている気がして、心が温かくなる。それと同時に、耳慣れない単語も目に飛び込んできた。副題に書かれた「弱い責任」とは、いったい何を指すのだろう。
まずはその対義語にある「自己責任」から確認してみる。著者によればこの言葉は、既に明治時代に用例があり、「大正時代にはドイツ語の『Selbstverantwortlichkeit』の翻訳語として使用されていた」そうだ。その後、今のような形で使われるようになったのは、1980年代以降のことだ。
自己責任論は「新自由主義」とともに日本社会に導入された言説である。新自由主義とは、市場に対する国家の介入を縮減しようとする思想であり、社会保障の削減を進める考え方である。他者を頼ることを消極的に評価する自己責任論は、そうであるからこそ、社会保障を受けることをも恥ずべき行為として位置づける。この点で、自己責任論と新自由主義は癒着しているのである。
その源にあるのは、一つの人間観だ。人は他者に頼ることなく、自らの意志のみで行動することができるし、その責任はすべて己のみで引き受けられるという考え方であり、「近代ドイツの哲学者カントにまで遡ることができる」近代的な人間観だという。この見方から生まれる責任の概念を、著者は「強い責任」と名付けた上で、もう一つの責任のあり方、すなわち「弱い責任」を提示する。
弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が、連帯しながら、他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する。
自分の生活を振り返った時、どちらの責任のあり方に助けられるかといえば、圧倒的に後者だ。事故や災害などの突発的な出来事だけでなく、育児や介護、病気や老いといった日常の中で起こりうる出来事であっても、自力だけで乗り切ることが難しいケースは多々ある。そんな時、「誰かに頼ること」が前提の社会であれば、孤独でも非力であっても、より生きやすい未来が拓けるはず。そうして著者は私達を、「責任をめぐる思索の旅」へと導いていく。
本書は全六章で構成されている。一章では、我が国における「自己責任論」の成り立ちと構造を丁寧に解きほぐす。続く二章以降では「強い責任」の危険性と、責任を巡る視線の変更、つまり「誰が責任を負うのか」ではなく、「誰に対して責任を負うのか」について論を深めていく。それぞれの章では、哲学者の國分功一郎やハンス・ヨナス、エヴァ・フェダー・キテイ、ジュディス・バトラーの論をさらいながら、「弱い責任」の持つ可能性と未来が検討されている。
1988年に東京都で生まれた著者は、法政大学文学部哲学科を卒業後、大阪大学大学院文学研究科博士課程を修了した博士(文学)であり、現在は立命館大学大学院にて准教授を務めている。「哲学カフェ」の実践などを通じて、社会に開かれた対話の場を提案してきた。
言葉を駆使して物事を考え続けることは、ややこしくて面倒くさい。だから放り投げたくなったり、誰かに任せておきたくなったりする気持ちはよくわかる。しかし「自己責任論」が蔓延した現代社会において、それは悪手でしかない。
だからこそ本書を読み、考えてほしい。時間はかかるかもしれない。それでも、著者が提示してくれた「弱い責任」という「私たちがこの社会で自分らしく生きていくために、必要なアイデア」を共有することで、きっと私たちは次の世代へ、より生きやすい社会を渡すことができるようになるだろう。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。