コロナウイルス感染症が流行り出したころ、知人と電話をしていた時のこと。当時は病についての情報が少なく、マスクや消毒薬も足りない状況で、休業する店も多く出た。かつて私が勤めていた書店は営業を続けていたものの、それは店員が感染リスクにさらされ続けることと同義でもある。懐かしい顔が次々と浮かび、胸が痛んだ。そんな私に、知人は言った。「でもさ、その仕事を選んだのは本人だから。嫌なら辞めればいいんじゃない?」と。
その時湧いた怒りとさみしさが、ずっと心に残っている。知人の言葉はいわゆる「自己責任論」の一種であり、個人の力で選べる「自衛策」としては正しいのかもしれない。一方、そう考える人ばかりの世界になったら、失われる職も職場も山ほどある。社会として困ることも増えるだろう。だがそう言い返してみたところで、知人が納得したとは思えない。はたして、どう考えれば落としどころが見つけられるのか──。
タイトルの通り本書は、そういった迷いに対する一つの処方箋だ。冒頭で著者は、互いに対立する意見を持った者同士が議論を深めるための土台について、こう定義する。
当たり前のことだが、議論をするには、自分の主張と相手の主張の細かいところを明らかにしたうえで、話し合いのテーブルにのせなければならない。たとえば、(1)そもそもその問題はどのような事柄であるのか、(2)どんな基準でどの方針を採ろうとしているのか、そして、(3)その方針はどのような条件(範囲や時期)において有効であるのか、などをある程度クリアにしなければ、建設的な議論などはできようもない。
その上で、「単に議論の場を増やすだけでなく、自身と異なる相手の言い分・主張をきちんと読み取り、その論理構造を把握するといったスタンスが広まる必要がある」とも語り、そうするための一つの方法として、「公共哲学(public philosophy)」の活用を提言する。
全3部の本書のうち、第I部では学歴社会と教育の問題を、第II部では商業主義やルッキズム、刑務所の民営化に関する問題について、現代社会で実際に見られる例をそれぞれ具体的に挙げながら考えていく。まとめとなる第III部では、多文化共生を推奨する「リベラル」という立場の解説から、公共哲学の歴史と流れを通して、より良い「公共のあり方」を模索していく必要性がうたわれている。
1974年生まれの著者は、2007年に千葉大学大学院社会文化科学研究科日本研究専攻博士課程を修了した。専門は主に英米哲学思想や社会思想史、リベラリズム、スコットランド文化で、これまでに多くの書籍を執筆してきた。現在は、神奈川大学国際日本学部日本文化学科の教授を務めている。
正直なところ、本書を通して私の知人に対する言葉が見つかったかと言えば、それはまだうまく形にならない。ただ、取るべき立場のヒントは見えた。
公共の事柄を論じるにあたっては、自身のスタンスを理解し、他人とどの点で一致していながらどの点で異なり、どういった連帯がどこまで可能であるのかを、冷静に模索する必要があるだろう。そして、そのためにも、対立する議論相手でさえも自身と同等な人格として尊重し、その声を封じることなく、きちんと対話しようとする寛容の徳が今こそ必要であるように思われる。
とても難しいことだが、これを諦めてしまったら、きっと分かり合えないままなのだろう。感情に振り回されるのでも対話を止めるのでもなく、「われわれは粘り強く『公共』について思考をめぐらしてゆくべき」という著者の言葉を忘れず、考え続けてみたい。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。