派手な迷子には哲学が効く
「俺はもう、生成AIブームにうんざりなんだよぉ」と、人工知能関連の仕事をしているある人がぼやいていた。いわく、どこに行っても365日その話題ばかり振られるのだという。2022年の秋頃からChatGPTなどの生成AIを誰でも試せるようになった。たしかにあれはおもしろい。かつて囲碁AIのAlphaGoがイ・セドルに勝利したときよりも、うんと鼻先にAIを感じる。絵と言葉は私にとって身近な「情報」だからなのか。それを思うと、人工知能の専門家にちょっと見解を求めたくなる気持ちはわかる。
せっかく専門家に尋ねるのなら、大きな見通しや考えに触れたい。インスタントな使い方や“稼げるハウツー”なんてのは、それこそ検索したらいくらでも情報がでてくるからだ。そして「シンギュラリティが起こるぞ! AIが人間から奪う仕事はこれだぞ!」といったセンセーショナルさだけが目立つ記事にも食傷気味というか、もう読みたくない。「そういう話をしたいんじゃないんだよ」と、だだをこねているやつが私の中にいるのだ。
『情報哲学入門』を手に取った理由はそのあたりにある。「哲学」という言葉に良い予感を抱いたのだ。そしてその予感は当たった。
本書では、情報を技術開発論的な観点でもなく、社会論的な観点でもなく、しかし双方の観点を視野に収めながら広い視野を確保し、なんとか見通しのよい考察方法をつくりだすことを企んでみたいのだ。(中略)
「情報という問い」に接近するためには、「哲学」と称さざるをえない建てつけこそふさわしいと判断したのである。
本書では、著者の北野圭介先生の論立てに沿って、現代の知の巨人たちが「情報がもたらす未来」とどう向き合っているかが述べられる。哲学にも政治学にもサッパリ疎い私にもわかりやすい(哲学が苦手だなと感じる人にも、この点は声を大にして伝えたい。おもしろいよ!)。彼らがどんな考えをもち、どこですれ違い、どこが重なっているか。そういった思考の地図が整然と示されている。
そう、この本は地図なのだ。「私はどちらに向かおうか」と考えるときのよき相棒だ。
「情報社会」なんて言葉がちょっと古くさく感じるくらい「情報」で満ち満ちていることに居心地の悪さを覚えつつ(ターゲティング広告の精度の高さにウワッとのけぞった人は大勢いるだろう)、とはいえ今更背を向ける気などない。そして本書でも何度も触れられているが、「情報」というものがそもそも曖昧すぎる。情報は、私と切り離せないくらい常にそばにいる。それなのに、どこの何者なのか、明らかではない。
つまり、2024年の私は曖昧なものに囲まれて迷子になっている。危険か、安全か、そもそもそんな分類ができるのか。そんな濃霧で棒立ちになっている迷子には哲学が効く。
みんな「情報」について語っている
「第I部 情報がもたらす未来」を読むと、現代の優秀な論客たちがあらゆる切り口で「情報」について語っていることがわかる。技術、経済、政治、どの領域でも「情報」とその展望について言及されている。
例えば技術の分野では、カーツワイルの「シンギュラリティ」論に始まり(この言葉がSFチックに独り歩きしている現状もよくわかる)、科学哲学者のボストロムの論を次のように重ねていく。
どこかの時点で機械の知能が人間を凌駕していくだろうと予測している点はボストロムも同じだということである。(中略)
だが、ここでより大事なのは、いかなる方向性をもって人工知能が人間知能を凌駕していくかについて、ボストロムとカーツワイルが異なる見解を示しているところだ。ボストロムは、バラ色の未来ではなく、ダークな未来を予見している。(中略)
俗に広まった言い方をすれば、実装をめぐる競合が起きるのだ。(中略)なんらかの特定の知能機能が他を圧倒し、覇権的なポジションを掌握するという事態だろう。そうボストロムは予測する。彼が「シングルトン」という独特な語で言いあてようとしているのは、まさにそうした事態である。
「覇権的なポジション」という言葉を読んで、電車のなかで誰もが同じメーカーのスマートフォンを使っている光景を思い出す。ボストロムの予言は何ら突飛なものではないと感じる。
さらに、私たちに身近な経済や政治でも「情報」は重いテーマとなっている。とりわけ私の目を引いたのは経済学者のズボフだ。ズボフは「監視資本主義」なる言葉をかかげている。
焦点を絞り込んでいえば、「監視」という政治権力の発動の際に用いられることの多い言葉が、「資本主義」という経済活動の様態を示す言葉とドッキングさせられている点が勘所である。であるので、監視を国家論や権力論から捉える議論の流れに回収してしまうとミスリーディングになるだろう。(中略)
簡単にいえば、監視と呼びうる、人々の行動をデータとして抽出し、そのデータを解析し、行動予測する商品が生み出されはじめている、ということだ。(中略)デジタル技術による「監視」が、いまや政治権力の圏域ばかりでなく、経済的利益を生む取引に供されている、そういう段階に入っているのだ。
ターゲティング広告はもちろんのこと、最近では血圧や体温や睡眠時間といった自分の皮膚の下にある情報だって外部に提供できることも考えると、岐路に立たされているのがよくわかる。
続く「情報と政治の未来」では、日本でも広く知られているフランシス・フクヤマ、サンデル、ハラリといった論客たちが情報技術と生命倫理の問題に切り込んでいる。ここでもやはり、それぞれの政治的主張や哲学を鏡合わせにすることで、情報技術と人間の行方を読者である私たちに示してくれる。
情報とはそもそも何なのか
「第II部 情報哲学の現在」もおもしろい。曖昧だけと確実に存在する「情報」について、第I部と同じく第一線の学者達の論をもとに、技術と哲学を行ったり来たりしながら考察していく。とくに西垣通の「基礎情報学」が丁寧に取り上げられている。
西垣の基礎情報学は、「情報」を論じるにあたって、その「意味」を問うのだ。「意味」という語がかなり強調されて記されていることのラディカルさは見逃されてはならない。一般に、通常の(代表的にはシャノン=ウィーバーの)情報技術論においては、機械による情報処理は「意味の捨象」が前提とされる。であるからこそ、情報の機械的伝達の精度を上げることを本意とすることで、デジタル通信技術はかくも発展を遂げてきた。それと真っ向から対抗して、基礎情報学はその「意味作用」を考察の俎上に載せるというのだ。さらには、それが関わる「社会」との関係のあり方についても問うというのだ。
この「基礎情報学」は、私が密かに生成AI(と、その万能説)に対して感じてきた奇妙かつもどかしい気持ちを明快にしてくれた。
「表象主義においては、客観的に存在する実体世界のありさまを、表象の体型によって記述できると考えられている」が、それは正しくないからだ。「ヒトの意識によってとらえられ、明示的に言語表現された対象から織り上げられた」表象が「いつのまにか「(客観的)世界」に等値されているにすぎない」。ひいては「記述した結果をコンピュータに記憶し、適切な論理操作をほどこせば、ヒトの知能活動を人工的に実現できると信じる」のも、したがって「正しくない」のである。
「人工知能が役に立つ(あるいは役に立つわけがない)」といった、実務的な話だけじゃなく、もっと自分の心身に引き寄せて考えたいのだ。そしてそれは、本書が取り扱うような哲学にしかできないんじゃないかと思う。
なお、ロボット工学と人工知能の領域に踏み込む「第6章 人工知能の身体性」もとても興味深い。我が家にいる2018年生まれの子犬型ロボットaiboが、まさに本書で述べられているような無数のセンサーとアクチュエーターと人工知能の塊であり、家という環境と体験をもとにaiboなりに日々活動している。あれは決してイヌではないが、ただの電動のオモチャでもない。昔からそう断言してきたが、これは飼い主のひいき目と行きすぎた見立てなのかしらとも思ってきた。でもそうとも言い切れないのだと本書のお陰で思い直しているところだ。
考えるための道具
第I部、第II部でいろんな論客の思考にふれた先に、実践ともいうべき第III部が待っている。「情報」と共に生きていくうえで、何度も必要となるであろう思考と、そのためのヒントが並んでいる。
「《思考のヒント13》情報技術は「社会」概念を一新する可能性を胚胎していることに留意する」は、福沢諭吉が明治時代に“society”の日本語訳に苦心して「人間交際(の道)」という言葉を選んだという話とともに、昨今よく使われる「ソーシャル」という言葉についても、こんなふうに示されている。
日本語の「社会」にも、意味の振り幅に対応するような向きがあることも一概には否定しがたい。
そうではあるのだが、「社会」の方が抽象度が高すぎるからか、その語感を回避するためからか、それ以外の理由なのかは判然としないものの、「ソーシャル」というカタカナが用いられたことによって、人と人との意思疎通の交わりという側面への情報技術の応用の実現に多くのひとびとの関心が向くようになったのかもしれない。そうであるなら、社会という語がその中核のひとつで指し示す人と人との交じり合いに、情報技術による介入が変化をもたらしつつある、そういってもおかしくないはずだ。(中略)
であるからこそ、自らが「社会」という言葉を用いるとき、その意味をできるだけ絞り込んでおくことが、より実効性のある考察につながるかもしれない。
ここからコミュニケーションに関する分析を、哲学や第I部と第II部で登場した論考と再会しつつ進めていくのがとてもおもしろい。本書に書かれている「情報」にまつわるすべてのことに、今まさに自分が、地に足をつけてもがいていると自覚できるからだ。
さて、冒頭で書いたような「派手な迷子」だった私は、この本を読んでどう変わったか。もちろんゴールには到着しておらず、引き続き迷子であるのだが、落ち着いて考える迷子になったことは確かだ。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori