軽い気持ちで本書の冒頭を読んだら、驚く方がいるかもしれない。少なくとも私はそうだった。「はしがき」にはこう書かれている。
本書は、前著『クリティック再建のために』(木庭 二〇二二a)の続編であり、叙述自体これの上に展開されるから、本書の読者は前著を予め読むことを要する(多少強く言えば、誤解のもととなるから、これを読まずに本書を読むということがないように願う)。さらに言えば、前著がさらにその上に成り立っている二冊、つまり『人文主義の系譜』(木庭 二〇二一)および『モミッリャーノ 歴史学を歴史学する』(モミッリャーノ 二〇二一)をも(『政治の成立』(木庭 一九九七)等までに及ばずとも)読んでいただきたい。
なんてハードルの高い読書なんだ!と、目が点になった。そしてふと、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を思い出す。あの本では料理店の入り口に「どなたもどうかお入りください」と書かれていたが、今回は真逆のバージョン。「~を読んだ者だけが、この本を開くことができる」といった具合で、その後も著者による条件の提示は続き、「はしがき」を読み終わるころには驚きを通り越し、いっそ面白く感じていた。
著者は1951年に東京で生まれた。1974年に東京大学法学部を卒業したのち、ローマ法を専門とする歴史学者として、同大学法学部や同大学大学院法学政治学研究科で長く教鞭を執った。2017年の退官後は、東京大学名誉教授となっている。著書も数多く手掛けており、中でも東京大学出版会より刊行された三部作『政治の成立』『デモクラシーの古典的基礎』『法存立の歴史的基盤』が知られている。
私が著者の名前に触れたのは、紀伊國屋書店が年に一度発表する「紀伊國屋じんぶん大賞2019 読者と選ぶ人文書ベスト30」にて、『誰のために法は生まれた』(朝日新聞社)が大賞に輝いた時だった。「老教授」たる著者が映画や戯曲などを題材に、30人ほどの中高生と語り合った5日間の記録を収めたこの本が、ずっと印象に残っていた。だから今回、タイトルにも惹かれた本書を読んでみようと思ったのだ。
さて本書は、「現代の日本において何故クリティックが定着しないのか」という問いを立て、その答えとして1900年前後からの日本の歴史をたどっていく。ちなみに「クリティック」とは一般的に、批評家や評論家を意味するが、本書においては、「物事を判断する場合に何か前提的な吟味を行う」ことを指している。たとえばあるテキストを解釈しようと試みる時、そもそもそのテキストが解釈する対象として正しいものなのかを問い、その上で、自分が行っているのは正しい解釈なのかを問う知的態度、とも言い換えられる。どこかに誤りを含む前提から、正しい結論を導くことはできない。論拠への問いを重ね、その正しさを確認し続けることでしか積み上げられない社会があるとも言えよう。
そうして著者は第一章において、夏目漱石の『三四郎』に登場する人々を、ある種のモデルとして用い、時代を紐解いていく。特に重要となるのは、第一章のタイトルにもなっている「与次郎」だ。当初、目にした時は「何の話がはじまるの?」と首をかしげるばかりだったが、著者は彼の性格や特徴を一つの典型としてあぶりだすことで、その後の時代の人々や世間のあり様を分析してくれる。
本書の巻末には注や文献一覧があるものの、それだけではわかりにくい単語や人名、出来事がふんだんに登場する。またそのジャンルも、著者の専門である法学や歴史だけでなく、文学や哲学に経済学、社会学、民俗学、はてには政治と政策、大学機構の話までと、とにかく幅広い範囲に及ぶ。おかげで何度も読む手を止めて検索をし、辞書を引いた。とはいえ、著者がその検索結果や辞書の意味で言葉を使っているのかまではつかみ切れず、「読んでる私が『クリティック』できてない…‥」と、頭を掻きながらの読書となった。
これまでの読書体験と知識が試される、と言っても過言ではない一冊。著者独特の言葉遣いや言い回しもあり、それに慣れるまでも時間がかかる。だが後半になればなるほど時代が近づくこともあり、見慣れた名前も増えてくる。著者が見つめてきた知的状況はどんな未来へ続き、その希望が何に託されたのか──それは、本書を開いた方のみが知りえることだろう。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。