単純な勧善懲悪の物語だけを楽しんでいた幼い頃は、「正義」に種類があるとは思いもしなかった。たとえば水戸黄門も特撮ヒーローもRPG(ロールプレイングゲーム)の勇者だって、みんな同じ「正義」の存在。そう信じていたものの、長じてさまざまな物語や現実を知るうち、悪代官や悪者や魔王の側にも、違った形の「正義」があることを知るようになった。そうなると困るのは、何が「正義」なのかがわかりにくくなること。はたして私たちは、どうやって「正義」を決めてきたんだろう──。
本書は法哲学の専門家による、さまざまな哲学者の正義論を分析し、まとめた一冊だ。著者は冒頭で、10年ほど前にアメリカの政治哲学者マイケル・サンデルの講義や書籍が話題となったことに触れ、当時、世間で正義論への関心が高まったことを「歓迎すべき」 現象と称えつつも、同時に「いくらかの不満も残りました」 と述べている。その理由は、著者とサンデルの政治思想の違いに加えて、別の点にもあった。
彼が紹介する正義論へのアプローチが政治的正義(あるいは「社会正義」と呼ばれることも多い)にばかり重点を置きすぎていて、それ以外の理解の仕方を軽視していると思ったからです。公的意思決定に関する政治的正義も重要ですが、それだけが正義論の領域ではありません。
そのような思いから著者は、現代正義論が主に政治的正義を論じるようになった起点として、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの『正義論』を挙げる。その上で、正義論の長い歴史から見るとこの状態は当然のことではなく、むしろ「個人の行動や性格の正しさを論じてきたロールズ以前の正義論について知ることが不可欠」 だと力説する。そして、歴史上で知られる哲学者たちがかつて論じてきた正義観の多様性に触れ、彼らがその対象として「そもそも何を想定していたのか?」 という観点から、本書を記すことになったとつづっている。
序章では、本書全体への足掛かりとなる「正義」の一般的な概念と、「正義論」を分類するための二つの基準が紹介されている。ここで私は「対他性」や「徳倫理学」という言葉を初めて知った。正直、一度読んだだけでは頭になじまず、ちょっと読んでは戻り、もう一度意味を確認してから先へ進む……といったことを繰り返した。この作業が後で生きてくる。なぜなら序章が終わるとともに著者のギアチェンジが完了し、第1章から第9章までフルスロットルで話が進んでいくのだ。振り落とされないよう、とにかく必死でしがみつきながら、同様の作業を繰り返しては少しでも理解する。集中講義のような読書だった。
1955年に東京で生まれた著者は、東京大学法学部を1978年に卒業した。現在は一橋大学名誉教授であり、日本法哲学会の前理事長としても知られている。法哲学を専門とする法学博士として、法哲学に関する著書や翻訳書を多数手掛けてきた。
そんな専門家による専門的な分野の本書だが、文中には時折、著者の「心の声」ともいえるようなひと言が挟まれていて、ほっこりする。たとえば18世紀後半に生きたスコットランドの思想家アダム・スミスが著した本については、当時の世情を伝えながらこんな感想をこぼしていた。
私は『道徳感情論』を読んでいると「スミスさん、あなたは人がどう思っているかをそこまで気にする必要はないでしょう」としばしば言いたくなるのだが、これは規範的な問題として理解できる。
まるでスミスの肩を叩いてねぎらうような言葉に、思わずにっこりしてしまった。そして偉大な哲学者たちもまた、私たちと同じようにその時間を生きて学び、彼らなりの答えを遺してきた人間なのだと実感する。どこか畏れ多く思う気持ちもありつつ、それでもその点で私たちは、彼らと同じ土俵にいると言えるだろう。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。