舞踊家、田中泯の存在を初めて知ったのは、ご多分に漏れず「本業以外」の俳優活動を通してだった。山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』(2002年)を観たときに「なんだこの未知の名優は」と圧倒され、これが俳優デビュー作となる舞踊家であると知った。そして松本大洋原作のアニメーション映画『鉄コン筋クリート』(2006年)では初老のやくざ・鈴木(ネズミ)役の声を演じ、その渋い声音に魅了された。「身体全体を使った表現に長年取り組んできた求道者は声の芝居にもナチュラルに深みを増すのだな」と根拠なく思ったりした。
そして、文筆家としてもやはり素晴らしかった。田中泯という人に抱くイメージどおりの文体と言おうか、荒々しく武骨で、それでいてしなやかに流れるような速さで疾走し、独自の哲学と思想に貫かれ、真摯な怒りと茶目っ気がない交ぜになっている。たとえば、こんなくだり。
僕の住居はカラダの中、所番地はない。僕のカラダは博物館、父も母も弟もそして幼い僕自身も生きている。幼いままで怒ったりわめきちらしたりしている。自由だ。嘘つきな言葉は僕のカラダの中では逮捕される、その罪は、カッコ悪いから。僕のカラダはいつも教えてくれる、人に見えない所でこそカッコよくすごせ、と。カラダこそが永久に僕自身だ、それも、たった一個だ。面白いじゃないか、此処(ここ)からしか始まらない場所、僕のすみか。ときに僕はカラダ自身に成る。最高!
本書は山梨日日新聞のコラム連載「えんぴつが歩く」から抜粋・加筆修正してまとめられた一冊。連載は10年目を迎え、現在も続いている。原稿用紙に鉛筆で書くという著者のスタイルは近年珍しいかもしれないが、そうでなければこの独特の文体は獲得できなかっただろう。
山鳩とツクツクホーシがそこと向こうで鳴き合いっこ、そよ風がカラダにさわり行ったり来たり、ゆるやかなリズムだ、トンボが近くで舞い舞いする。年毎に花の数が増えている彼岸花が今年は群がって咲いている、赤い! 西側の森で数羽のカラス、たくさんの言葉を使いこなしているのだろう、西陽がかげった途端に会話が変化したように思えた。何万匹かの生き物が、やってくる夜に向かって全身で営みを繰り広げている。
まさしく「踊るような文体」。即興的に思考は突っ走り、カラダもそれに併せて動く。原稿用紙に叩きつけられる鉛筆の速度、筆圧がどんどん上がっていくのが伝わるかのようだ。読者は時にその思考の奔流に心地好く乗り、時には驀進(ばくしん)する言葉から振り落とされないよう追いつかねばならない。シンプルで純真で明晰な分析がそこかしこに散りばめられていて、その目まぐるしい頭脳の回転に想いを馳せずにいられない。
世の中では未来未来と念仏のように語られ書かれていますが、それは一体いつのこと、いつから未来なの、今ってどういうこと、と聞きたくなるのです。僕のえんぴつは次々と未来を通過しながら動いています、こんな実感はおかしいのでしょうか。
絶え間なく流れ続ける時間のなかで、現在とはいつのことか、未来とは何か。舞踊家として己の「カラダ」を意識しながら、著者はそんな観念のなかに生きてきた。その言葉は常に切実で、真摯で力強く、飾らない。ダンサーらしい柔軟さもあるが、求道者ならではの厳格さもある。美辞麗句を並べ体裁良くトリミングした「名言集」のような嘘くささはない。
僕にとって安定する状態とは平衡のとれることではなく知覚し続けること、従ってときには不愉快なことどもの連続にどこまでも逃走したくなるのだ。他人はどうだか知らないが、僕には、生きてるうちに何もかもやり直したいという欲求がある、生きてるうちに縄文時代で暮らしてみたい憧れがある。そう言えば、幾度も蒸発未遂の経験がある、残念なのか良かったのか僕は知らない。
なんと若々しく、そして最近の若者からは出てこなさそうな言葉だろうか。
1945年生まれの戦後少年ならではの、歯に衣着せぬ言葉も随所に飛び出す。学ばない人類への問いかけ、だらしない政治に対する怒り。優位性を競わせる社会のあり方を何度も厳しく批判し、自らは未完成でありたいと願う。その思想は、堅苦しくせせこましく生きる現代人にも、救いや教えをもたらすのではないだろうか。
戦後という時間の折々にアメリカと日本の偉い大人達は何を公にし何を秘密にしてきたのか、何だか格好悪い国日本、格好悪い日本の大人、という子供心が僕の基調になったようだ。小さなころから成長の遅かった僕はいつしか、子供のままでいたい、もしくは子供をひきつれて大人になる、あるいは子供の視点を維持しよう、と、格好悪い大人にはなるまい、と戦後にジジイしている現在でも思っている。
この実にカッコいい宣言が、読めば読むほど、言行一致の説得力を増していく。ハンパな「子どもっぽさを残した大人」とは年季が違う。純真さが違うのだ。
僕は、カラダのことを書いたり喋ったりすると子供みたいになってしまう。驚きが常にあるからだ。きっと理路整然としたらたちまち忘れてしまうからだろう。カラダを忘れてしまうことが恐ろしい、といつ頃からか想い続けるようになった。理由は簡単だ、「私」という認識が生まれたのは他でもないこの僕のカラダの中でだ、どことは言えないが間違いはない。映画『君の名は。』(監督・新海誠)で一番嬉しかったのがこの点だった。カラダこそが僕に与えられた環境であり、その環境と僕は一つの世界をつくり「生き」ているのだ、ということ。このカラダの交換は大昔からの人間の大切な空想の一つだった。
身体性へのこだわりを自己分析的に語る言葉のなかに、ふいにアニメーション映画『君の名は。』(2016年)という思いがけないタイトルが出てくるあたりが若い。同時に、強靭な好奇心、逞しく脈打ち続ける想像力もうかがえる。
魅力的な文体、思索の豊かさに加え、その生き方自体も読者の興味を惹きつけてやまない。世界をまたにかけるパフォーミング・アーティストとしての精力的活動と、山梨県の白州(現北杜市)での農村生活を行き来する独特のライフスタイルは、どのように両立しているのか?
坂本龍一、寺山修司、マルセ太郎、松岡正剛といった多彩な人々との交遊も読ませる。舞踊の師・土方巽との思い出を綴るくだりは特に濃密だ。また、幼少期から青年期のエピソードも興味深い。二十歳になった年、スーツを着て成人式に出席しようとした(が、挫折した)という顛末には「この人にそんな時代があったとは!」と驚かされること請け合いである。
南方熊楠への憧憬を吐露するくだりにも、なぜか非常に納得がいく。そして、訪れた熊楠の墓前で、熊楠の遺族が見守るなかで舞い踊ったという逸話にも、「らしさ」が凝縮されている。また、福島県浪江町の立ち入り禁止区域で、一度出会い、のちに同じ場所で再会した1匹の「蜘蛛」を相手に踊るくだりも、その人並外れた感受性を鮮やかに物語る場面だろう。
よしオドろう、かつての営みの暮らしの魂さん達に、そして生命をかろうじて輝かせているたった一匹の蜘蛛の大将の為に。僕の手足は四本、大将の手足にやや足りない、が手足を頑丈な糸のようにして僕はオドり、大将の形と心意気を夢中で模写した。オドリの始まりは模写からだという人もいる。一面的だが、この日はその通りだった。僕は大将と一体化した。見た目には全然かも知れないが形の上での一体化よりは僕は魂の同化を切望する。
その思想、哲学、生活の矜持は、犬童一心監督によるドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』(2022年)とも併せて噛み締めたい。俳優としての一面だけでは伝わらない、田中泯という人物の汲めども尽きない魅力を、ぜひ本書でも味わってほしい。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。