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ウクライナのカーシャもフランスのガレットも……「蕎麦」だけじゃないソバの魅力
(著:俣野 敏子 解説:松島 憲一)
「そば」だけじゃない、ソバの魅力
おいしいお蕎麦屋さんは街の宝物だ。見つけると「誰にも教えたくない」とすら思う。今年もいそいそと夏の新そばを食べた。かつて「そば切り」と呼ばれていたソバ料理は、今じゃ「そば(SOBA)」となり、海外でも通じる。
現在の日本ではソバといえば多くの人びとが麺のそばを思い起こすように、幼名「そば切り」はソバ料理の王道をひた走っている。
植物のソバと麺のそば。私がどちらのことたくさん考えているかというと、断然後者であるし、ずっと「ソバといったらそば」だったけど、『そば学大全』はソバのいろんな姿を教えてくれた。著者の俣野敏子先生は信州大学で長年ソバの研究に取り組んできた農学博士だ。
とにかく私はソバが多収穫になる条件を知りたかった。そしてその法則性をはっきりさせ、多収品種がほしかった。そして、蕎麦屋のおじさんたちを嘆かせない方法で新しい品種を栽培する方法も明らかにしたいと願っていた。
ソバは寒い地域でも育つ便利で気のいい植物というイメージだったが、実はそんな楽ちんな存在ではなかった。そして「蕎麦屋のおじさんを嘆かせない方法」を、俣野先生は本当に知りたかったのだ。本書の大きな魅力は、俣野先生の熱意とソバに向けるまなざしのチャーミングさだ。何度もクスッとなる。
信州はソバどころだから、育てるのは簡単だろうと予想していたが、それも甘かった。ソバはそれほど簡単に多収穫になるものではないと少しずつわかりかけてきた時には、引くに引けなくなっていたとでもいえばよいのだろうか。これが腐れ縁というものだろうか。いや、腐れ縁といいたいのはソバのほうかもしれないと感じるようになっていた。
つまり、ソバは奇妙な作物だけれど可愛いなー、と感じるようになってしまっていた。
ソバは花粉を昆虫に運んでもらわないと受粉できないし、イネや麦のようにみんなで一斉に大きくなって秋にたっぷり実ってハイ一気に収穫!といったスッキリした生態でもない。無限伸育性と呼ばれるこの性質を、俣野先生は「ダラダラと伸び続ける」と表現する。
こんなソバのことを俣野先生は「奇妙な作物だけれど可愛いなー」と思うのだ。生き物として愛でている。
本書の序章と第一章で俣野先生のソバ研究の面白さが存分に語られる。ここで作物としてのソバの立ち位置や、新種栽培のむずかしさがよくわかる。そりゃあ蕎麦屋のおじさんも泣いちゃうよな、と思った。
ソバは労力がかからない作物といわれてきた。(中略)
しかし、今は必ずしも労力がかからない作物とはいえない。
「今は」ってどういうこと? ヒントは他の作物と近代農業の機械化にある。
続く第二章と第三章では日本と世界のソバ食文化がたっぷり味わえる。世のソバ料理は「幼名・そば切り」だけにあらず。フランスにはソバ粉のガレットがあるし、ポーランドやロシアやウクライナではソバの実を炊いたカーシャがある。中国はもちろん、ネパールだって歴史あるソバどころ。奇妙で可愛いソバは、世界中の人びとのお腹を満たしてきた。
俣野先生の好奇心と食文化へのリスペクトが多彩なソバ料理の世界を教えてくれた。これはソバを通して他者の大切な文化を知る一冊だ。
「五回食べに来ればおいしいと思うようになるかも」
俣野先生は世界中を旅してその土地のソバ料理を食べる。ソバ学会のたびに各国のソバ料理を味わい、珍しいソバがあると聞けば試さずにはいられない。なかでも強烈なエピソードは、高山病で四日間意識不明になっても「エベレスト街道のミトパーパル」を夢見たという話だ。おそば食べたさに意識不明になった人を私は他に知らない。
俣野先生の「食べたい」という熱意が私は大好きだ。これは他国の食文化に触れるうえでの大切な姿勢だとも感じる。たとえば、俣野先生が西安のダッタンソバを食べたときのこと。ダッタンソバは別名ニガソバとも呼ばれる。つまり苦いのだ。
二○○一年秋の西安でニガソバの麺を食べた。冷たいかけそばで、二・五元だった。帰国して「おいしかったか」とたずねられたから、「まずかった」と答えたら、「なぜまずいものを食べるのですか」と問い返された。これも五回食べに来ればおいしいと思うようになるかもしれないと思いながら食べるのは楽しいではないか。私はそんな食べ方が好きである。ニガソバの冷かけは大人気で、江戸のぶっかけそばを思い出して心が和んだ。
外国で見知らぬ料理を食べると、「おいしい!」と感動することもあれば「ちょっと口に合わない」と感じることだってある。でも、どちらでも「食べてよかった」と満足して大切な思い出になる。あの不思議な楽しさを俣野先生は見事に言い表してくれた。「食べたい」って「会いたい」と同じだ。そんな俣野先生がはるばる出かけて食べる各国のソバ料理は、なんともうまそうだ。
東欧で愛されているソバ料理・カーシャのくだりも忘れられない。カーシャとはソバをご飯やお粥のように炊いたもので、その調理方法はなんともあいまいだ。
実は第一回のスベロニアでのシンポジウムの時にポーランドの人にカーシャのつくり方を教えてもらおうとした。少しわかりかけてきたところに彼の奥さんが来て、「あなた、宅でのつくり方はそうではないですよ」という話になった。なるほど奥さんのほうがたしかだと再度聞き直し始めたまではよかったが、まわりにいろいろの人たちが集まってきて、こうでもない、ああでもないといい始めたのだ。それも何ヵ国語が使われているのかわからないような状況で。私はお手上げになってポカーンとしていた。そして理解した。彼らの言葉がきわめて多様なように、カーシャは多様なのだと。
多様性の面白さとむずかしさが伝わってくる。いつか私もカーシャを東欧のいろんな国で食べてみたい。いつになるだろう、でも食べてみたい。
冒頭で紹介した「幼名『そば切り』はソバ料理の王道をひた走っている」には続きがある。
しかし筆者は諸外国のソバ料理の多彩さに圧倒され、またそれらの多くがともかくも家庭の台所の中に息づいているのを知ってうらやましく感じ、日本の食文化はそれほど単調だったのかとふと淋しくなって、もう一度見直してみたくなった。
たしかにそば切りはあんなに大好きなのに、ソバ粉もソバの実も縁遠い。が、我らが俣野先生は諸外国のソバ愛好家たちに挑むかのように、日本のソバ料理をこれでもかと紹介する。そう、遠い異国のソバ料理だけじゃなく、俣野先生は日本の多彩なソバ料理にも会っているのだ。このおいしそうなことといったら!
そばねりは大根おろしをつけて食べたり、野兎のへか汁の中に入れて食べる。とろりと舌の上でとろけるような味は、自分の家でとったソバ粉でなければ味わえない。野兎のへか汁は、大根、里芋、コンニャク、春菊などの入ったもので、醤油味である。
ちょっと誇らしくなる。いいなあ、食文化って年代や国を飛び越えておもしろい。最後に俣野先生のこんな言葉を紹介したい。とかくおいしい料理に目がなく、ともすれば「星」なんかで評価しがちな不遜な私に、食いしん坊としてあるべき姿勢を示してくれた。
どちらがよいかなどというつもりはさらさらない。洋の東西を問わず、農作業の忙しさと飢えに苦しんだかつての人びとが、それぞれの自然環境をうまく利用して作り上げた食の伝統だろう。
- 電子あり
日本が誇る伝統食にして健康食、そば。しかし、植物であると同時に作物でもあるソバの文化は、日本だけのものではない。ソバの本場・信州で研究を積んだ農学者が、世界のソバ食文化を探訪して日本のそばの魅力を再発見する。さらにその栄養と味覚、健康食品としての機能や、品種改良についても解説。
江戸の農書に表れる「ソバめくそ」「めくそ飯」とは何か? 「普通種」よりも収量が多くて安定しているダッタンソバ、ニガソバは、なぜ日本で栽培されなかったのか? なぜ「手打ちそば」が上等なのか? 朝鮮半島のシミョン、カルクッス、中国の「猫の耳たぶ」マオアルドウ、ネパールのソバの腸詰、ウクライナのソバカーシャ、スロベニアのソバ団子、フランスのガレットに、イタリアのポレンタ……各地のソバ食レシピをみれば、日本の「そば切り」を本流とする麺食ばかりがソバではない。縄文時代から親しまれる、ソバをもっと楽しむ本。〔原本:平凡社、2002年刊〕
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。
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