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(著:橋場 弦)
「賄賂」と「贈り物」のダブルスタンダードに苦しむ古代ギリシア人
現代のわれわれのまわりでも、もちろん古代とはことなる構図と文脈によるものではあるが、役人や政治家の汚職事件は、あとを絶たない。われわれはそれを非難するが、その一方で、盆暮れや冠婚葬祭の贈答を、社会生活にとって重要な儀礼と考えてもいる。だがどちらの本質も、返礼を期待した贈与であることにかわりはない。かといって汚職を野放しにしては、公共性のもっとも重要な部分が崩壊してしまうことも、言をまたない。アテナイ市民も、賄賂をめぐる複雑な価値観の葛藤(かっとう)に苦しみながら、けっしてそれを放置することはなかったのである。
著者の橋場弦氏は、東京大学にて教授として教鞭をとる歴史学者である。専門の研究テーマは、世界史上初の直接民主政が採用されていたことで名高い「アテナイ民主政」。古代ギリシアにて、おもに紀元前508~前322年にかけてのおよそ180年余りにわたり続いた国家運営システムだ。
アテナイ民主政においては、市民権を持つ男子であれば、国家の意思決定機関である「民会」に誰でも参加でき、かつ希望者は演壇に上がって動議を提出できる。貧富を問わず、どの市民も一人一票の投票権をもって、多数決で動議の可否を決定する。
世界史上まれに見るほど直接民主政の理念を徹底させていた古代ギリシア人は、「贈与」と「賄賂」の問題をめぐってどのような価値規範を育て、それに対処していったのか。
全編を通してキーワードとなっている言葉は「互酬性(レシプロシティ)」。「なにかを贈られれば同等のものをもって返礼すべし」という原則のことだ。言葉は知らずとも、この考え方自体は現代においても理解しやすいものだろう。
それこそ古代ギリシアにおいては政治・外交・経済から軍事、宗教に至るまで「互酬性」を重要な原則として営まれていたそうだ。ギリシア最古の詩人・ホメロスが描く社会にあっては、贈与こそが人と人とのつながりを形づくる基本的な社会原理であり、むしろ美徳であったという。
では、かつては美徳であった「贈与」(の一部)が、どのような価値観の変遷を経て「賄賂」として厳しく断罪されるようになったのか、現代においても非常に難しい「贈与と賄賂の境界線」については、どのように考えられていたのか。本書はそれを探求する一冊となっている。
アテナイ市民も民主政治の暗黒面と向き合い続けていた
互酬性を規範としていたギリシア人が、賄賂について「悪いけれどもよい」という両価的な態度をとっていたことは、ある意味で当然の帰結であった。第三者から見れば言語道断の贈収賄行為でも、当時者にとっては伝統的な贈答慣行に従った、うるわしい美徳であり、あるいは少なくとも、それを装うことができた。賄賂と贈与とが、一枚の紙の裏表のような関係にある以上、賄賂に関して両価的な態度が生まれるのは、避けられない。
この記述を読んで、数年前に自身の選挙区内で有権者にカニやメロン、祝儀や香典などを贈った容疑で公職選挙法違反に問われ、公民権停止となった衆議院議員を思い出した。おそらく本人も「地元の有権者たちとの通常の交流の一環」として「これくらいは誰もが昔からやっていたことだ」と考えていたことだろう。
正直、その感覚もわからないわけではない。しかし、アテナイ市民も贈収賄を「美徳」として奨励していたわけでも、「必要悪」として黙認していたわけでもない。むしろ贈収賄に対して法的にも厳しい態度を取り、明確に犯罪行為とみなして、その予防や処罰のためにさまざまな制度を発展させていった。
本書では、近代でいう罪刑法定主義すらなかった古代ギリシアにおいて、彼らがどのように贈収賄を告発し、その訴訟手続きや法を整備していったかについても、残されている限りある資料を駆使して解明・解説されている。
政治家や役人など、特定の権力者が賄賂や横領で私腹を肥やしたとしても、それは政治の腐敗ではなく個人の腐敗に過ぎない。ただ、それが発覚した際に批判や糾弾がなかったり、最終的に罪に問うことができなかったりしたら、それこそが政治の腐敗といえる。
古くはリクルート事件から佐川急便事件、直近での政治資金パーティによる裏金事件など、現代の政治においても決して廃れることのない贈収賄の問題。それが今から2500年近く前のアテナイでも同様に大きな問題となっていたことを知り、人間の業というか、愚かさのようなものを改めて感じざるを得ない。
文庫版で約150ページと、気軽に読めるボリュームもうれしい。古代ギリシア人たちが、人間の業を煮詰めたような政治の暗黒面とどう向き合ってきたか。今の政治への不信感にモヤモヤしている人に「教養として知っておいても損はない」とお勧めできる一冊です。
- 電子あり
参政権の平等と民衆の政治参加という理想を追い求めた古代ギリシアの人々。しかし、政治の暗黒面を避けて通ることはできなかった。それが賄賂である。では賄賂とは、いつから、なぜ、「犯罪」とされるようになったのだろうか――。
紀元前5世紀なかばに直接民主政の骨格を完成した都市国家アテナイを、国力の絶頂期に導いたペリクレスは、「賄賂になびかない政治家」として知られる。友人からの供応を嫌い、宴会の招きに応じることもなかったという。それが贈収賄の温床になることを知っていたのである。
しかし、賄賂と贈与はどう違うのか。古代ギリシアはもともと、贈与交換が重視される社会だった。贈与の機能は多様であり、現代ならば、それは謝礼、賃金、報償、あるいは賄賂となるが、それは総じて「贈り物」と呼ばれたのである。そのなかで、私的な利益を誘導する賄賂への態度は、民主政の始まりによって一変したわけではなかった。賄賂を断罪する姿勢があらわれるのは、ギリシア人がペルシア戦争という未曽有の困難に直面し、賄賂が公共性にとって破壊的な結果をもたらすことに気づいたときだった。アテナイのパルテノン神殿の建設という大公共事業に際しても、贈収賄事件を実証する記録は1件も見当たらないという。
初出 本書は、2008年に山川出版社より刊行された『賄賂とアテナイ民主政――美徳から犯罪へ』を、文庫化にあたり改題したものです
レビュアー
編集者/ライター。1975年生まれ。一橋大学法学部卒。某損害保険会社勤務を経て、フリーランス・ライターとして独立。ビジネス書、実用書から野球関連の単行本、マンガ・映画の公式ガイドなどを中心に編集・執筆。著書に『中間管理録トネガワの悪魔的人生相談』、『マンガでわかるビジネス統計超入門』(講談社刊)。
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