世界と欧州について語った希有の本
本書はビッグデータ(簡単にいえばAIの基礎技術です)の専門家、イヴォンヌ・ホフシュテッターが2019年に発刊した本の翻訳です。
これを知ったとき、思わず「ああ、ババひいちゃったかなー」と感じたことを正直に告白しておきます。
ITを扱った本は、賞味期限が短くなりがちです。技術の進歩がいちじるしく速いため、情報の陳腐化のスピードがおそろしく速くなっています。2019年にリリースされたIT関連の本で今でもマトモに読める本はほとんどない。そう言ってしまってもいいでしょう。
現代を論じるためにはITを避けて通ることはできません。何冊かはまさにエバーグリーン、不朽の名著と呼んでさしつかえないものになっていますが、そうでないものもすこぶる多い。「ハイリスク・ハイリターンのジャンルである」と言ってもいいかもしれません。
本書の原著が発刊された2019年には、ロシアによるウクライナ侵攻はもちろん、新型コロナウイルス感染症の世界的な流行もありませんでした。コロナは著者ホフシュテッターの生国ドイツでも猛威をふるい、14万人を超える死者を出しています。この本は、それより前に書かれたものなのです。
アメリカ大統領もいまだトランプでした。したがって、かれの退任をきっかけに起こったあのおぞましい事件――民主主義の終焉と評されることもあるアメリカ連邦議会襲撃事件も起きてはいません。「これは牧歌的な時代に書かれた本である」と断じることも可能ですし、ひょっとすると、著者ホフシュテッターも同じ思いを抱いているかもしれません。
もっとも、本書が示している視点は、今なおアクチュアリティに満ちたものであり、むしろその重要性は以前よりずっと増しています。
さらに、おそらくこれは著者が意図してなかった側面ではないかと思いますが、本書には「現代ヨーロッパ人の考え方」が表現されています。
われわれはいつしか、海外の情報の多くをアメリカに負うようになっています。それはパワーバランスからいっても歴史的経緯からいっても仕方ないことではありますが、欧州にはまったく異なった視点があることをつい見落としてしまうのです。
たとえばウクライナ問題などは、米国より地続きである欧州の方がずっと切実であることは言うまでもありません。
デジタル分野における進歩の主権を、経済だけに委ねるわけにはいかない。なぜなら、デジタルな進歩は、よりよい技術と効率のよい経済という側面以上のものを包括しているからだ。デジタル化は、国家間の新たな衝突の火種をも内包している。私たちの平和と安全を脅かす以上、衝突は私たち全員に直接関わることだ。デジタル時代の安全が死角にあってはいけない。しかし、それを認識するためには、二一世紀におけるドイツとヨーロッパの安全という厭(いと)われがちな議論を、これ以上避けていてはならない。
理解していないものを制することはできないのだ。
成長する陰謀論
「目に見えない戦争」というタイトルから、コンピュータ・ウイルスやそれに類するマルウェア(悪いプログラム)、およびサイバー攻撃について語ったものであると考える人は少なくないことでしょう(自分もそうでした)。みずからウェブページを立ち上げている人や、wordpressなどのツールをもちいてブログを運営している人にとっては、海外から不審なアクセスがあることなど日常茶飯事です。インターネットに国境はなく、サイトに最初にやってくるのは海外の攻撃者である、という認識は世界共通のものになっています。また、AIやドローン、ロボット兵器など、先端テクノロジーが戦争に投入されるようになれば、それを機能不全にするための技術も向上していくのも当然のことです。
しかし、本書がふれているのはその側面ばかりではありません。むしろ、ネットがもたらした現象を包括的にとらえ、その影響を「戦争」という側面から読み解こうとしています。
たとえば、前述のアメリカ連邦議会襲撃事件の背景に、陰謀論があることはよく知られています。
その陰謀論の代表的なものは、「政財界やマスコミには悪魔崇拝の小児性加害者がはびこっている。トランプ大統領はその勢力と戦う正義のヒーローである」というにわかには信じがたいものでした。そんな観念に凝り固まった人が数百人も集まって暴徒と化し、民主主義の殿堂への破壊行為に及んだのはまったくの事実です。
どうしてそんなことが起こってしまったのか? その大きな要因として、SNSの「おすすめ機能」があるといわれています。
YouTubeなどである動画を視聴すると、「あなたはこれも好きでしょう」という感じで、YouTubeが同傾向の視聴者が好むような動画をあげてくれます。これをくりかえせば、「おすすめ動画」はあきらかに偏(かたよ)ったものになります。偏った思想はさらに偏った思想を呼び寄せてしまうのです。
米議会襲撃事件は、第三国――ロシアや中国のような――が意図的に引き起こしたものではなかったといわれています。誰もそうしようと思っていないのに、ある種の人々の中にある思想が育ち、支配的なものになってしまったのです。
しかし、すでにこのような事件が起こった以上、意図的に同じことを起こそうという動きはすでに始まっていると見るべきでしょう。うまくやれば、ミサイルをぶっ放すより何千倍も効果的です。
本書は、そんな無視できない「現代ならではの現象」について、かなりのページをさいて言及しています。
世界は普通ではなくなった。私たち──「普通」がどんな感じなのかをまだ知っている私たち──は、存在の根本に関わるような喪失体験をしている。普通さの喪失という経験。慣れ親しんだ秩序は崩れ去り、気づけば瓦解した状況の中に突っ立っている。社会学では、この現象を偶有性(コンティンジェンシー)という。押し寄せるデータ、情報、刻一刻と再定義される物事に流される私たちには、もうどこにもつかまるべき不動のものなどない。
新しい普通、それは瓦解社会である。それまで優位にあった相対論的思考回路や、あらゆる美的観念、宗教上・倫理上の拠り所の抜け落ちた学術的・政治的理解が、そのような社会の解体の一端を担っていることに疑いはない。
「現代」を知るために
「同時代が未曾有の時代である」という認識は、古今東西、誰もが持っているものです。過去はずいぶん美しく純粋に見えるが、それは過去だからに過ぎません。「最近の若い者は」という嘆息は現代でも多く耳にしますが、まったく新しいものではなく、古くはプラトンの著書に求めることができるそうです。
梅棹忠夫さんが、60年代に出版された名著『知的生産の技術』のなかで語っていました。すでに情報革命が到来して久しいが、それは個人には至っていない。多くの人の意識そして制度は、依然として過去のままである。
「現代」はそれを得ようと努力することなしには、永遠につかむことのできないものです。
世の中は変わっているのに、人はなかなかその思想を改めようとしません。個人ばかりではない。社会制度もすでに現代には不適合になっているのに、問題だらけのまま運用しようとしてしまうのです。教育などその側面がとても強いように思われます。
知らぬが仏のことわざもありますから、時代の変化に意識的であることが必ずしも幸福であるとは言えません。とはいえ、知識人は絶対にその態度をとってはならないと思っています。現状維持はなにも考えないでも成されますが、変革には不断の情報収集と論理の構築がどうしても必要です。
本書は、現代とはどういう時代なのかを考えるために、最良のテキストのひとつになっています。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/