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この国は、何に失敗し、何を失ったのか? ポスト戦後期の「失敗」の研究

ポスト戦後日本の知的状況
(著:木庭 顕)
2024.04.08
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軽い気持ちで本書の冒頭を読んだら、驚く方がいるかもしれない。少なくとも私はそうだった。「はしがき」にはこう書かれている。

本書は、前著『クリティック再建のために(木庭 二〇二二a)の続編であり、叙述自体これの上に展開されるから、本書の読者は前著を予め読むことを要する(多少強く言えば、誤解のもととなるから、これを読まずに本書を読むということがないように願う)。さらに言えば、前著がさらにその上に成り立っている二冊、つまり『人文主義の系譜』(木庭 二〇二一)および『モミッリャーノ 歴史学を歴史学する』(モミッリャーノ 二〇二一)をも(『政治の成立』(木庭 一九九七)等までに及ばずとも)読んでいただきたい。

なんてハードルの高い読書なんだ!と、目が点になった。そしてふと、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を思い出す。あの本では料理店の入り口に「どなたもどうかお入りください」と書かれていたが、今回は真逆のバージョン。「~を読んだ者だけが、この本を開くことができる」といった具合で、その後も著者による条件の提示は続き、「はしがき」を読み終わるころには驚きを通り越し、いっそ面白く感じていた。

著者は1951年に東京で生まれた。1974年に東京大学法学部を卒業したのち、ローマ法を専門とする歴史学者として、同大学法学部や同大学大学院法学政治学研究科で長く教鞭を執った。2017年の退官後は、東京大学名誉教授となっている。著書も数多く手掛けており、中でも東京大学出版会より刊行された三部作『政治の成立』『デモクラシーの古典的基礎』『法存立の歴史的基盤』が知られている。

私が著者の名前に触れたのは、紀伊國屋書店が年に一度発表する「紀伊國屋じんぶん大賞2019 読者と選ぶ人文書ベスト30」にて、『誰のために法は生まれた』(朝日新聞社)が大賞に輝いた時だった。「老教授」たる著者が映画や戯曲などを題材に、30人ほどの中高生と語り合った5日間の記録を収めたこの本が、ずっと印象に残っていた。だから今回、タイトルにも惹かれた本書を読んでみようと思ったのだ。

さて本書は、「現代の日本において何故クリティックが定着しないのか」という問いを立て、その答えとして1900年前後からの日本の歴史をたどっていく。ちなみに「クリティック」とは一般的に、批評家や評論家を意味するが、本書においては、「物事を判断する場合に何か前提的な吟味を行う」ことを指している。たとえばあるテキストを解釈しようと試みる時、そもそもそのテキストが解釈する対象として正しいものなのかを問い、その上で、自分が行っているのは正しい解釈なのかを問う知的態度、とも言い換えられる。どこかに誤りを含む前提から、正しい結論を導くことはできない。論拠への問いを重ね、その正しさを確認し続けることでしか積み上げられない社会があるとも言えよう。

そうして著者は第一章において、夏目漱石の『三四郎』に登場する人々を、ある種のモデルとして用い、時代を紐解いていく。特に重要となるのは、第一章のタイトルにもなっている「与次郎」だ。当初、目にした時は「何の話がはじまるの?」と首をかしげるばかりだったが、著者は彼の性格や特徴を一つの典型としてあぶりだすことで、その後の時代の人々や世間のあり様を分析してくれる。

本書の巻末には注や文献一覧があるものの、それだけではわかりにくい単語や人名、出来事がふんだんに登場する。またそのジャンルも、著者の専門である法学や歴史だけでなく、文学や哲学に経済学、社会学、民俗学、はてには政治と政策、大学機構の話までと、とにかく幅広い範囲に及ぶ。おかげで何度も読む手を止めて検索をし、辞書を引いた。とはいえ、著者がその検索結果や辞書の意味で言葉を使っているのかまではつかみ切れず、「読んでる私が『クリティック』できてない…‥」と、頭を掻きながらの読書となった。

これまでの読書体験と知識が試される、と言っても過言ではない一冊。著者独特の言葉遣いや言い回しもあり、それに慣れるまでも時間がかかる。だが後半になればなるほど時代が近づくこともあり、見慣れた名前も増えてくる。著者が見つめてきた知的状況はどんな未来へ続き、その希望が何に託されたのか──それは、本書を開いた方のみが知りえることだろう。

  • 電子あり
『ポスト戦後日本の知的状況』書影
著:木庭 顕

本書は、前著『クリティック再建のために』(講談社選書メチエ)の「姉妹篇」であるとともに「日本篇」と言えるものです。
「クリティック」とは何か? ――その問いに答える前著は、他方で現代日本におけるクリティックの不在という事実を突きつけてきました。本書は、その点にフォーカスを定め、「現代の日本において何故クリティックが定着しないのか」という問題を集中的に扱います。取り上げられるのは1900年前後からの日本の「知的状況」です。ただし、現実との関わりを抜きには不可能な「クリティック」の不在をテーマとする以上、日本がたどってきたここ100年余の歴史を無視することはできません。それゆえ、著者の言葉を借りれば、「本書の内容は「思想史」でもインテレクチュアル・ヒストリーでもない。知的階層ないし擬似知的階層の知的活動のうちのクリティックのみを追跡する」ことになります。
ここで分析される対象は、「知的階層の言語行為」すべてです。それを分析することは、必然的に「知的階層の(欠落を含めた)あり方」をも扱うことになります。つまり、「知的階層を構成すべき人々の言語行為全体」が問題とされ、その結果、「狭い意味の学術」の世界の外で形成された言論も取り上げられることになります。
本書の「結」で、著者はこう言います。「戦後期に課題として発見された地中深くの問題を解明しそのメカニズムを解体する方途を探るためのクリティックの構築が挫折し、そしてその結果今ではこの課題に立ち向かうための条件、つまり立ち向かう資質を潜在的に有する階層ないしこれを育てる環境それ自体、もまた失われてしまった」。
この「失敗」は著者自身も当事者の一人にほかなりません。それゆえ、著者はこう言うのです。「なるほど私はバトンを受け取り先へ渡すことには失敗した。ブレイク・スルーを担う極小の一点へ、私の仕事が結び付くものではない。しかし、責任の中には必ず、失敗について報告し申し送る、とりわけ、何故失敗に終わったか、失敗の結果どういう状況が後へ残っているのか、について考察を遺しておく、ということがある」。
本書は、まさにこの言葉を実践したものです。これは「失敗」の研究であるとともに、この国がたどってきた道程の記録でもあります。好むと好まざるとにかかわらず、未来はここから歩まなければならない。しかし、著者が言うように「本書が最も悲観的に見る部分にこそ希望があることも事実である」ことを、ぜひ多くのかたに感じていただきたい。その願いとともに、本書をお届けいたします。

[本書の内容]
第I章 与次郎
第II章 戦前期(一八九五―一九四五年)
第III章 戦後期(一九四五―七〇年)
第IV章 ポスト戦後期I(一九七〇―九五年)
第V章 ポスト戦後期II(一九九五―二〇二〇年)

レビュアー

田中香織 イメージ
田中香織

元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。

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