さだまさしさんの「タキ姐の素晴らしい言葉をもっと多くの人に届けたい」という想いから一冊の対談本が誕生した。1970年代から海外アーティストと日本との橋渡しをするコーディネーターとして活躍してきた加藤タキ氏は、いかにして前例のない実績を収めたのか。その人生哲学を担当編集の田中浩史が改めて聞いた。
さだまさし×加藤タキ 異色の対談本が生まれたわけ
田中 最初、この本のお話をいただいたときは、正直、「なんで、さだまさしさんと加藤タキさんが?」と不思議に思いました(笑)。
タキ そうですよね(笑)。2年ほど前、まさし君に「タキ姐のことをもっと知りたい! 世の中に伝えたいから、一緒に本を作ろう」と言われたときは、「えーっ、本当に?」と思いました。
田中 さださんとの親交は、タキさんのお母様、日本初の女性国会議員の一人だった加藤シヅエさんのほうが先だったんですよね。『関白宣言』が大ヒットして、この歌詞が「女性軽視」と大バッシングを受けた際に、この歌は究極のラブソングだとシヅエさんがエールを送られたのがきっかけとか。
タキ そうなんです。その後、母を通して私もまさし君と親しくなり、もう44年来のお付き合いになります。まさし君は7歳年下ですが、私のことをいつも「タキ姐」と呼んでくれて、本当に弟みたいな感じなんですよ。
田中 今回の対談では合間合間で、さださんほどの方がタキさんに対して何のてらいもなく人生相談をされていて、とても驚きました。功成り名を遂げた七十過ぎの男性が、年上の女性にこうして自分をさらけ出して素直に相談するなんて、なかなかないですよね。本当に素敵な関係だと思います。
タキ そうですか(笑)。私には、弟分や妹分がたくさんいますよ。歳を重ねてますます人が募ってくださるんです(笑)。
田中 きっと素晴らしいフェロモンが出てるんでしょうね(笑)。
プロデューサーのような存在だった母・加藤シヅエ
『さだまさしが聞きたかった、「人生の達人」タキ姐のすべて』著者の加藤タキ氏
田中 まだ日本に「コーディネーター」という職業がなかった50年前から、タキさんは海外のトップスターに日本のCMや音楽祭へ出演してもらう交渉役をしてこられました。それは唯一無二の草分け的な存在、まさに時代の最先端だったと思うのですが。
タキ 10代の頃からたった一人でアメリカに渡って勉強していましたから、英語ができたんですね。それで最初は通訳の仕事をしていたのですが、日本と欧米ではビジネスのやり方が全然違うでしょう。そのまま訳していたら、欧米の方には通用しないんですよ。だから、日本のクライアントが言ったことをそのままではなく、私の“解釈”を付け加えて、欧米の方にも理解してもらえるように訳していたんですね。そうしているうちに、だんだん交渉まで任されるようになっていきました。
田中 オードリー・ヘプバーンやソフィア・ローレンといった超一流の女優さんたちからも信頼されて、プライベートまで親しくされていたというエピソードは有名です。タキさんはコーディネーターという新しい職業を確立されましたが、そもそもフリーランスで働く女性自体が珍しかった時代に、大変なことですよね。
タキ 確かにどの現場でも、私以外は男性ばかりでしたね(笑)。
田中 ずばり、タキさんの成功の秘訣は何だったと思いますか?
タキ 母の存在は大きいと思います。平均寿命が50代だった時代に、私は、母が48歳、父が53歳のときの子でした。その宿命的なものがあって、幼い頃から「いつ私たちがいなくなるかもわからない。とにかく路頭に迷わないように、しっかり自分の力で生きていけるようになりなさい」と言われて育ったんです。
そのほかにも、「どんなに地位が高く、お金がある人でも、どんな国の人でも、人間はみんな同じ。怪我をすれば赤い血を流すの」とか、「always be yourself 、いつも自分の心に素直に、あなた自身でありなさい」とか、今でも心に残っている母の教えはたくさんあります。
田中 いまならすっと入ってくる言葉ですが、当時としてはかなり進歩的な教えですよね。
タキ ですから私は、相手が誰であっても、まったく態度が変わらないんです。どんな大女優や大物プロデューサー、大富豪であっても、物怖じすることはない。
当時、仕事の現場で一緒だった周りの日本人男性たちは、地位のある人にはみんなペコペコして、立場が下の人に対しては急に強気に出たりしていた。もし私もそういうメンタリティだったら、絶対にうまくいかなかったでしょうね。
田中 自分のことを言われているようでお恥ずかしいです。
タキ まぁ、組織のなかにいると仕方ない面もありますよね。
田中 フォローのお気遣いまで、ありがとうございます(笑)。さださんはそんなお母様のことを、タキさんの「プロデューサー」だとおっしゃっていましたね。
タキ 私の考え方、仕事の仕方、生き方、すべてが母の教えによってつくられました。私は母を目標にずっと頑張ってきたつもりです。
33〜34歳の頃、周囲からは順風満帆に見られていたようですが、私自身は大きな悩みや孤独を抱えていた時期がありました。そんなとき、母に「背中が丸まっているわよ。そういうときこそ、姿勢を正して、常に笑顔を絶やさず、凛としていなさい」と言われたんです。その言葉にハッとして。以来、常に「凛」としていたいと心がけています。
田中 タキさんの「凛」としたイメージはその時代からできてきたんですね。
いつまでも若々しくあるために「老い」とどう向き合うか
左) 著者の加藤タキ氏 右)『さだまさしが聞きたかった、「人生の達人」タキ姐のすべて』を手に持つ、担当編集者の田中
田中 タキさんは、67歳のときに社交ダンスを始めて、75歳からシャンソンまで歌うようになったんですよね。お話ししていても、とても78歳には思えません。本当にお若い!
タキ 若く見られたいなんて毛頭思っていませんが、若々しくはありたいですね。老いは必ずやってくるけど、自分次第で若々しくいることはできます。私は、いただいたお仕事を一生懸命にやって、好きなことを好きなように、そして少しでも前進を心がけています。
田中 それがなかなかできないんですよ。欧米と比べて、タキさんの目に日本のお年寄りの姿はどう映りますか?
タキ 多くの日本人は、年齢に縛られすぎていると思います。「何歳だから、こうあらねばならぬ」という考えをまず捨ててほしい。一歩踏み出して、自分の好きなことに挑戦してほしいです。
田中 私も、この本のお二人の話にはとても元気をいただきました。20年後、私もタキさんみたいになりたいなと、人生の目標ができました。周囲からは「さすがにそれは無理でしょう!?」と笑われましたが(泣)。
タキ いえいえ、何歳からでも何かを始めるのに遅いということはありません。ぜひ頑張ってください!
撮影/渡辺充俊(講談社写真部)
1945年東京生まれ。コーディネーター。父の加藤勘十氏、母のシヅエ氏はともに翌46年、戦後初の衆議院議員選挙で当選(母シヅエ氏は女性初の国会議員の一人となる)。アメリカ留学の後、米国報道誌東京支局勤務を経て、フリーで通訳の仕事を始める。その後、オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレンをはじめ、海外トップスターのCMや音楽祭などへの出演交渉をする、国際的コーディネーターの草分けとして活躍。現在は、テレビ、講演、各種委員、著述等、幅広く活動。ほかに国際NGO AAR Japan[難民を助ける会]副会長を務めるなど、ボランティア活動にも励む。