Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
この絵本には、セリフがない。モノローグも、ナレーションもない。ゆえに読者は絵から受け取るイメージだけで、物語を読み取り、意味を考えなければならない。子どもの想像力や思考力を育てるには、まさにうってつけの作品と言えるが、何より今の大人たちにこそ必要な1冊と言えるだろう。考える力、想像する力、他者に想いを馳せる力を猛烈な勢いで失いつつある我々にこそ。
本書の作者は、ウクライナ在住のイラストレーター、オレクサンドル・シャトヒン。ロシア国境近くの街・スームィで妻子とともに暮らしていたが、2022年2月から始まった軍事侵攻を逃れるため、現在は避難生活を続けている。この作品は、突如自国で戦争が始まってから1ヵ月のうちに描かれたという。そこに映し出されるのは、一人の少女の物語だ。
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
真っ黒に塗りつぶされたページから、物語は始まる。鉄条網に囲まれた、モノトーンの世界に、少女はいた。どこの国の、どの場所かもわからない(つまり「どこでもある」ということだろう)。少女は孤独で、頬には煤(すす)がつき、どうやら家族もいないらしい。彼女は鉄条網が絡み合ってできた巨大な蜘蛛に襲われ、必死に逃げる。そのとき、彼女の前に黄色い蝶が現れた……。
ここから先に書くことは、決して「答え合わせ」ではない。本書の末尾に記された〈楽しみ方〉というページにも「感じることをたいせつにする」「解釈をまかせる」「ゆっくり時間をかけて、くりかえし読む」「会話をみちびく」といった、この本を子どもと読む際の手引きがハッキリと示されている。つまり大人も同じように、まずはまっさらの状態で本書を味わうべきなのだ。そのうえで、いろいろな知識を動員して理解を深め、解釈を広げていけばいい。時には、子どもに助け舟を出してもいいし、あるいは子どもから教わるディテールもあるかもしれない。なるべく柔軟な心で向き合いたい1冊である。
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
蝶は魂の化身であるという言い伝えは、ヨーロッパにも、アジアにも広く存在する。黄色は中世の昔から忌み嫌われる色、警告色でもあったが、子どもが着る洋服の色でもあったという(以前、レビューした『中世ヨーロッパの色彩世界』という本にも詳しい)。孤独な少女の前に現れた黄色い蝶は、彼女を導くように、鉄条網の外の世界へと連れ出していく。
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
恐ろしい爆撃の跡には、ひしゃげた遊具の残骸と、魂の残滓=黄色い蝶たちの姿が残されている。そこは子どもたちが遊んだ公園だったようだ。そして禍々しくそそり立つミサイルが突き刺さった地面には、かつて動物たちが身を寄せた大樹が生えていたらしい。ほんの少し前まで存在したはずの平和な光景と、灰色に塗りつぶされた現在の惨状。そのコントラストを目の当たりにした少女は、涙し、叫ぶ。なぜ、どうして、世界をこんなふうにしてしまったのか、と抗議するかのように。
黄色い蝶は、どんどん数を増していく。美しくもあり、それが何の表象であるかを考えると、悲しく恐ろしくもある。
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
現実には、すでにウクライナ侵攻から約1年8ヵ月もの時間が経過した。終わりの見えない状況は人々を疲弊させていくばかりである(それこそが権力者の最大の目的であるという卑劣さもわかっているから、誰もがひたすら耐え忍んでいる)。それでも希望を捨ててはならない。そんなメッセージと祈りのために、開戦まもなく本書は描かれたのだろう。
やがて、蝶は「再生」の化身となる。
打ち捨てられた廃墟のような街並みを、破壊されスクラップとなった廃車の山を、延々と続く鉄条網を、黄色い蝶と青い空が明るく染めていく。青と黄色は、言うまでもなくウクライナの国旗の色だ。
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
旅路の果てに、少女は平和な世界のビジョンを見る。老いも若きも、人々が故郷の大地に戻ってきた光景を。見上げる空はどこまでも青く、黄色は実りの季節を思わせる。だが、その平和がどれほどの「魂」を礎にしているのか……。黄色い蝶の群れは空の半分を、地平線まで埋め尽くす。いつかは訪れる(と思いたい)終わりの日に、その黄色は、今よりもずっと痛切に映るに違いない。
Illustration(c)Oleksandr Shatokhin
なお、蝶をモチーフにした作品は、映画でも小説でも数多い。マーティン・ブースの小説『暗闇の蝶』を原作にした、ジョージ・クルーニー主演の映画『ラスト・ターゲット』(2011年)には、極めて詩的かつ印象的に「魂のメタファー」として蝶が登場する。
また、韓国の鬼才キム・ギヨン監督の『殺人蝶を追う女』(1978年)という映画では、より捻ったかたちで生と死をつなぐ存在として蝶が描かれる。そういった意味を含む蝶の描写に触れたことがある人にも、本書をお勧めしたい。これらの作品に比肩する、忘れがたいビジュアルインパクトを心に刻むことになるだろう。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。