「ガルマは死んだ」構文の実践
『親切人間論』の著者は水野しずである。だれだ!?
水野しずはイラストレーターであり、POP思想家を名乗っているという! POP思想というものが、どういう思想なのか私は知らない! だが、当代きっての人気テレビプロデューサー佐久間宣行が「すこぶる笑えるすごい哲学書なのだ」と帯文だと書いているのだから、水野しずは大物なのだ! そうして読んでみたが、これはどういうことだ!
まともな人間性。そんなものでは生きていけないが、そんなものがないんだったらそもそも生きている意味がない。もはや我々は、地に足をつけようがない領域に達していると認めた上で、改めて根底から新しい「まともさ」についてよくよく考えたい。それも親切に。0(ゼロ)から、だれも置いていかないように。以上が本書の趣旨ですが、あまり気にしなくて大丈夫なので、好きな場所から好き勝手に読んでお楽しみください。
腰が低い!
大物に思えぬ腰の低さ! しかし、我々は気を許してはいけない! 水野しずは殊勝なことを言っているが、本当にそうか? そもそも217mm×122mmという特殊な、およそ細長い判型は本棚に収まりにくい! 「まともさ」を説くといいつつ、本の形も変幻自在の文字組み・段組みもまともではない! しかもハードカバーのスピン*付き! つるつるの上等な紙! 2色刷り! ブックデザイナーの鬼才・祖父江慎と共犯し、水野しずは好き放題ではないか! 本書を1980円(税込)で成立させる暴挙の影に、効率と損益分岐点に身を捧げる出版社の販売部員、業務部員の涙を忘れてはならない! しかし、おしゃれだ! 素敵だ!
(*スピン=背表紙の上部に糊付けされた、しおりとして使用するヒモのこと)
「好きな場所から好き勝手に読んで楽しんでお楽しみください」と、水野しずは言うが、
何度も何度も読み込んで、限界までベストな掲載順を検討してくださった編集担当の上田智子さんありがとうございました。
とはどういうことだ! 「好きな場所から好き勝手に読んで」は、編集者の意図が伝わらぬではないか! また水野しずは、「書きたいことはすべて書ききった」とばかりに、奥付以降のP258~264が空白なのだ! 7ページもあるのなら、エクストラボーナストラックの1本2本あっても良いではないか! おまけ! サービス! クレクレ! そうしたものを読者に許さない水野しずとはだれだ!?
ギブアップ! 脱線も甚だしい。
本書のなかで、だれもが理解できる文章の書き方として、『機動戦士ガンダム』に登場する「ガルマ追悼演説」が問題提起の例として提示されていたので、この原稿もそれで押し通そうと思ったが、論が一向に進まない。自分の圧倒的な力不足に情けなくなる。ただ一点、この本の異色さと、人を饒舌(じょうぜつ)にする熱みたいなものを感じていただければありがたい。
話芸と過剰な言葉
話は冒頭へ戻る。
水野しずとは何者か? 正直、わからないでいる。語りたいことはあるが、掴(つか)みどころがなく、説明が難しい。たとえば「はじめに」の次にくるのが「本は全部読まなくてOK」という挑発的なタイトルの論考なのだが、
「本は最も内容の価値に対して価格が安くて異常にお得」
だとしながら、「得のダンスは損のDJ」という論考では、
私は割と「損」とか「得」とかを文章の中で意味づけするのが好きなんだけど、逆説的なメッセージとしてしか使用しておりません。
と書き、
そんなに得(とされるやつ)がやりたかったか? あなたは。
とくる。損と得、どっちなんだ? わからない。
こうやって本の点と点を結びつけて「わからない」などと言うと、意地悪な読み方だと思われそうだが、本当のところ、私は「ちゃんと理屈、理解に落とせない自分は馬鹿なんじゃないか?」とビクビクしているのだ。いや、理屈にも理解にも落とせないことはない。先の「得のダンスは損のDJ」という論考を要約するとこうだ。
ツイッターではお役立ち情報がたくさん拡散されているが、それに囚われていると、かなりの時間の「損」が生じてしまう。そもそも損や得という言葉には、人それぞれの定義があるはずだが、その言葉を使うことで説得力が生まれる点に注意が必要だ。ぼんやりをしていると「損してはいけない」という社会通念に振り回されてしまうからだ。だから脱線という「損」をとる行動もしないと「何か」を手放すことになる。その「何か」は人それぞれだけど。
しかし、この要約は私の語りたい水野しずを、なにひとつ伝えていない。
ここで(私にとっての)水野しずをなんとか説明するため、「松本人志」というキーワードを設定してみた(本書にはまったく松本人志に触れられていないが、私の思いつきで設定してみただけだ)。
松本人志の出演番組で、こんな彼の姿をみたことはないだろうか? 自分の論がまわりに受け入れられず、「え~、なんでぇ~。ウソやん!」と言いながら、“ゴリゴリに説得にかかる”というシーンだ。
物事を見る視点がまわりと異なるために、まったく違う結論に辿り着いてしまう松本人志。
どうしてその結論が奇異に受け取られるのか、納得できずに憤慨してみせる松本人志。
そんな周囲と個人の対立関係を、松本人志は笑いに展開するのだが、水野しずはトリッキーな文体と丁寧なロジックで“ゴリゴリに説得しきってしまう”のだ。その話芸としての面白さ。それが、私が水野しずに惹かれる最大のポイントだ。
もう一点、完成された話芸を凌駕する過剰さにも惹かれる。たとえば「あまりにも露骨なソーランを今日も(明日も)((明後日も))」という論考の、手のつけられない言葉たち。
好き好んでこちらから「ソーラン」を捜索、発見したのではなく、出会い頭にソーラン、不可抗力としてのソーラン、止むに止まれず気がついたらソーラン、凄まじいソーラン、ゴリゴリのソーラン、ドモホルンリンクルのように、鼓舞の精神から搾り出された一滴一滴をじっと見つめるソーラン。原液から液すら排した塊のソーラン。夜空に輝く20億年前の今はもうない恒星の光のソーラン、(以下略)
引用箇所では、さらにソーランを連呼し、さらに変容し、文字どおり本の上で言葉が踊り出す。これなど『ダウンタウンのごっつええ感じ』における、松本人志演じるキャシー塚本が料理番組の収録を滅茶苦茶に破壊するコントに通じる狂騒を感じる。もう笑うしかない。
と、ここまでの原稿で水野しずが何を思考しているのか、ひとつも芯を食ったことを書けていない。書けないし、なんとか書いてもうまみを細らせてしまう気がして怖い。と同時に抜け目のない水野しずは、つつしみのないネット言論の世界への魔除けなのか、また読者を思考の迷路に突き落としたいのか、ときに論考の最後にこんな言葉を付け加えたりするのだ。
(答えはないよ)
みなさんが最大限オリジナルの命楽しめるといいなと思っています。
『それは、人による』
これを卑怯だと思うか、悪意だと思うか、正直だと思うか。
それは、人による。
レビュアー
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。