ダイバーシティとはなにか
ダイバーシティとは、多様性を意味します。企業などの集団は、ともすれば均質化した面々で構成されがちです。終始同じようなことを考え、同じような行動をとり、同じ場所にいるのですから当然かもしれません。このような集団は生産性に欠け、斬新なアイデアを生み出しにくく、不慮の事態に対応することを不得手とするとされています。そこで、あえて集団にまったく異質な人材を入れ、集団を多様化しようという動きがあります。雑に言うと、これがダイバーシティという考え方です。欧米だと人種的差異など幅があるのですが、日本の場合は健常者と障害者の区別と考えられることが多いようです。
これはまったく新しい考え方ではなく、法制化すらされています。「障害者雇用促進法」という法律は、企業に障害者の雇用を義務づけるために制定されました。法的に「多様性を取り入れた組織じゃなきゃダメだよ」と言ってるわけです。もっとも、本書で落合陽一さんもおっしゃっているとおり、「多様性って言ってる人ほど多様性じゃない」という側面はたしかに存在しており、法律をつくったぐらいでなんとかなる種類の問題ではなさそうです。
本書は、ひとことでいうなら先端技術を取り入れてダイバーシティを促進するプロジェクト「クロス・ダイバーシティ」の報告書です。リーダーである落合陽一さんを中心に、多くの専門家が集い、さまざまな研究がなされました。
クロス・ダイバーシティの挑戦
この研究はいうほど容易ではありません。
たとえば、この本には四肢欠損の作家・乙武洋匡さんの義手・義足をつくるこころみとして、「OTOTAKE PROJECT」が実行されたことが語られていますが、これは決して研究者ひとりでは成されません。本書でふれられただけでも、義肢装具士、デザイナー、理学療法士がかかわっています。もちろん乙武さん自身のやる気と鍛錬も不可欠です。
言いかえれば、このプロジェクトは、多様性を成すために、それを構築する側も多様になっていくさまを描いた記録でもあります。
重要なメンバーのひとり、東京大学の菅野さんは、次のように発言されています。
技術(=どうやって解くか)の多様性と課題(=何を解くか)の多様性をクロスさせて新しい価値を生み出すことは、クロス・ダイバーシティの根底にあるコンセプトの一つでした。人々が抱える課題の多様性を発見し、機械学習のポテンシャルとつなげるためのアプローチとして、専門家ではないユーザーが自らの課題を定義・記述できるようにすることを目指しました。
本書は、大きくわけて二つのパートで構成されています。ひとつは、各人がかかわったプロジェクトの経緯や成長の記録。もうひとつは、このプロジェクトの意義についての座談会です。クロス・ダイバーシティのメンバーたちは、それぞれが強い問題意識を抱いてこのプロジェクトに参加しました。
メンバーとの座談会に臨んだ東京大学准教授の斎藤幸平さんはこう発言しています。
AI、AIって言っているわりに、ようやく最近自動画像生成みたいなものができるようになっただけですよね。確かにすごいことなんだろうけど、他方で私たちは、こんな未来をずっと夢見てきたのでしょうか?
むしろ、約束された理想と現実の進歩の間に大きな乖離(かいり)がある。AIは、私たちを苦役から解放してくれて、人間が本当に楽しいクリエイティブなことに没頭できるようにしてくれるはずだった。それで、おカネがAI開発に集中し、膨大な資源やエネルギー、人材がつぎこまれたわけです。でもその結果できたのは、適当につぶやいたことを絵にしてくれる機械だけとなると、頭を抱えます。
各人によるレポートは、じつにイキイキとしています。それはひょっとすると、自分が持つ技術を、たしかに役立てられた、必要とする人がいた、という確信が得られたために生じたものかもしれません。クロス・ダイバーシティは表面的には「困っている人を助ける」おこないですが、いちばん助けられているのは「助ける人」のほうかもしれません。そんな感慨を抱かせるドキュメントでした。
わたしたちはデジタルネイチャーの中にいる
テクノロジーの発達は、人を幸福にするんだろうか?
そんな疑問は、誰もが抱いたことがあると思います。
2021年に起きた米連邦議会襲撃事件は、世界史に残る大事件です。民主主義の殿堂と呼ばれる建築物に多数の暴徒が暴力的に侵入し、破壊し、暴れ回りました。
議会を襲撃したのはほとんど「ある思想に凝り固まった人たち」だといわれています。彼らが凝り固まってしまった大きな要因として語られるのが、YouTubeなどの動画共有サイトの「おすすめ機能」です。
ある偏った思想をもつ動画を鑑賞した人が、ふたたび動画を見ようとすると、「おすすめ機能」で別の偏った動画が紹介されます。それを見ると、さらに別の偏った動画がすすめられます。これを繰り返すうち、いつしか「偏った動画」ばかりを見る人が大勢できあがってしまいました。暴徒になったのは、そんな人ばかりだったのです。
果たして、テクノロジーは人を幸福にするのでしょうか?
後戻りはできないのはテクノロジーの本質です。携帯電話がうるさいからといってそれがない世界には行けないし、自動車が危ないからといってそれがない世界に住むことはできません(ジャングルに住むとかなら別ですが!)。私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、携帯電話と自動車のある世界にほうりこまれているのです。
クロス・ダイバーシティ代表である落合陽一さんは、「デジタルネイチャー」という概念を提唱されています。
デジタルネイチャーというのは避けられない未来だと思っているんですけど、私のなかでは表裏一体の二つが一緒になっている話なので。ほうっておいてもこの世界はデジタルネイチャーになってしまうから、それに適応しないといけないというスタンスです。望ましい方向としてはボクは多様性を揺藍することに技術を使いたいわけですよ。ただ、避けたい方向に未来が向かうと、効率的に収奪しようということになるわけですね。「月に行こう」みたいな。
いま計算機科学分野の研究は、ほぼ資本市場に蹂躙(じゅうりん)されているんです。たとえば大規模言語モデルを扱える、巨額の資金を持っている企業が、研究の方向性を牛耳って、必然的にそうなっちゃう。巨大資本に蹂躙されちゃうんだったらここをつくっておいたほうがいいなとか、そういうことを考えながらこのプロジェクトも進めていて、そうじゃない技術の方向性を話せるといいなと思っています。
ここでデジタルネイチャーとはなにかを述べることはできませんが(知りたい人は調べてください)、これだけは言えます。もし、われわれがデジタルネイチャーの中にあるとするなら、それが不幸に作用することも当然あるだろう。しかし、だからこそ実現できることもあるはずだ。
クロス・ダイバーシティという挑戦は、そんな考えから出発したこころみであり、そうあらねばならないという強固な意志の産物です。未来をよきものにしようという希望のプロジェクトである、と言ってもいいでしょう。
プロジェクトについて斎藤さんはこう観察しています。
マジョリティと同じようにできるようになる技術だけではなくて、むしろ別の道で当事者の方たちのポテンシャルとか魅力を引き出す、技術革新の道がある。ただし、その道のためには、マジョリティの側、社会の側が変わろうとしなければいけない。(中略)
結局マジョリティへのあこがれを補完するために技術が使われてしまうと、いまの社会の価値観がより強固になって、目指すべき規範になる。「歩けるようになったから良かったじゃないか」というふうになってしまうわけです。そういう実存の問題は本来社会が、もっと多様性を受け入れるべきだというふうに変わっていかなければいけないのに、変わらないで、マイノリティがマジョリティのように振る舞うことをAIや新技術が助けているだけであれば、問題の根本解決にはならないのではないか。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/