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2023.03.09

レビュー

スポーツカー「86」の復活に賭けたトヨタエンジニアの心ふるわすノンフィクション

途中入社組のしぶとい技術者

「やってられねえぜ」
畦道の中で、小さなLEDライトを持った痩躯長身の男がひとり怒鳴っている。
「なんでわかんねえんだ! あのバカは」

サラリーマンなら、誰しも「やってられねえぜ」と叫びたくなる時がある。本書の主人公、多田哲哉もそういう立ち位置にいた。日本一の大企業「トヨタ」の途中入社組の技術者で、「理想のスポーツカーを作る」という夢を持ち、チーフエンジニアまで上り詰めたにもかかわらず、なぜ彼は誰もいない畦道で怒鳴っていたのか?

「製品の社長」と呼ばれた技術職が、トヨタ自動車にはあった。
車両担当主査という部長職のことである。いまのチーフエンジニアに当たる。(中略)
それが、トヨタの車種とチーフエンジニアの数が増え、本物の社長が絶対的な力を誇示するようになると、「製品の社長」という企業文化は少しずつ忘れられ、「チーフエンジニアの仕事は我慢することだ」という当事者たちの言葉が説得力を持つようになった。

「車種を素早く、どんどん増やせ」「ツベコベ言っている暇があったら、一日でも早く、一円でも安く車を作れ」という会社の方針のもと、エコカーやファミリーカーを作り続ける日々。予算と納期、社長や役員の意向に押し潰される希望。クルマづくりのためにすべてを捧げてきた多田は、人気のない夜道で「やってられねえぜ」と怒鳴るしかなかった。

しかし、彼は意外にしぶとい技術者だった。
この本は、そんな「しぶとい」技術者を描いたノンフィクションだ。

著者は、ドラマ化もされた『石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの』や『しんがり 山一證券 最後の12人』を書いた清武英利。野球ファンなら、読売巨人軍の元球団代表(兼編成本部長)で、ヘッドコーチの人事をめぐり渡邊恒雄を告発した「清武の乱」で名前を覚えている人もいるかもしれない。読売新聞社会部の記者時代に培った取材力で、企業や組織のなかで奮闘する知られざる人々をいきいきと描き出す名手だ。

ハチロクという伝説に導かれし者

ある日突然、多田哲哉は「スポーツカー復活プロジェクト」の責任者に任じられる。普通ならば会社の効率主義が優先されて、先延ばしされるようなプロジェクトが「なぜか」立ち上がったのだ。表向きの理由は、若者のクルマ離れを危惧して。しかし実情は、次期社長と目される豊田章男副社長の意向を汲んで立ち上がったもの。期待もされていなければ、いつ潰されてもおかしくないプロジェクトが、のちに「86」というスポーツカーに結実し、「スープラ」復活につながっていく……。

心を病む人も珍しくない職場で、家庭をかえりみず、ただひたすら仕事、仕事、仕事。やり直しを厭わず、粘りに粘って問題をひとつずつ解決する多田と、彼にジャイアンとあだ名を付けながら従う技術者たち。今から十数年前とはいえ、働き方改革など無縁の会社。クルマづくりに哲学を持つ技術者がプロジェクトに加わるたびに反発し合い、お互いを理解し、さらに高みを目指す。その工程は泥臭くも、モノづくりが生む熱気に満ちていて、自動車に縁のない人生を送ってきた私のような人間でさえグイグイ引き込んでいく。徹底した取材をもとに語られる技術者たちの群像劇はドラマチックで、まるでTBSの「日曜劇場」の企業ものドラマを見ているようだ。

この本を読みながら、塩水に糸を垂らして塩の結晶を作る実験を思い出した。
このプロジェクトは、多田哲哉の前に吊るされた希望という名の糸だったのではないか。糸の先にぶら下がっていたのは「スプリンタートレノ・AE86型」という塩の結晶。それは通称「ハチロク」と呼ばれ、漫画『頭文字D』でも描かれた名車。その小さな結晶に、行き場を失いかけていた技術者魂が引き寄せられて再結晶化し、「86」というスポーツカーに育っていく。その象徴的なエピソードがある。
「スポーツカー復活プロジェクト」は、多田とハチロクおたくの今井孝範の2人で立ち上げられる。開発中の車は、機密保持のため開発コードを取得しなければいけないのだが、ここで今井は社内で細工を施すのだ。取得したコードは「086A」。誰が見てもハチロクの後継車だと分かる開発コードで、機密保持もなにもあったものじゃない。しかし、こうしたエピソードがときに伝説化することもある。

小さな結晶は、次々と理解者を集めていくのだが、彼らの残すセリフが実にアツい。
エンジン開発が行き詰まり、多田は高級車レクサスGS用に開発された新技術を使用しようとする。しかし同じ会社とはいえ、莫大な開発費が投入された新技術は易々と使わせてもらえない。そんなとき、多田はエンジン部門を取り仕切る専務・小吹信三から呼び出され、怒鳴られることを覚悟するのだが……、

「お前の言ってることはよくわかる。しかし、カネのことまで俺は知らんからな。それはお前がなんとかしろ」

新技術は使っていいが、開発費の回収についてはなんとかしろよという、エンジン部門のドン。実は、小吹はかつてハチロクに搭載された伝説的スポーツエンジンの設計者だったのだ。なにこの展開! 少年漫画かよ!

一番グッとくることを言うのが、初代プリウスの開発責任者で当時副会長職にあった内山田竹志だ。「86」を成功に導いたのち、BMWとのプロジェクトで「スープラ」を開発することになった多田。しかし、企業風土も考え方もまったく異なるBMWとの共同プロジェクトは難航する。そこで内山田は「BMWとの関係がギクシャクするようだったら、お前が適当に返事しとけ。俺がうんと言ったということにすればいい」と、トヨタ側の全権を多田に与えたという。そんな内山田が、社内の技術者たちによく言っていた言葉がこれだ。

「まわりの奴がぐじゃぐじゃ言っても、信じたことはやめたらいかん」

これらのエピソードは、トヨタという巨大な会社が風通しの良い会社だという話ではない。複雑な社内の力学が働くなかで、多田はときに方便を使い、あちこちにスジを通し、苦心惨憺しながら「86」というスポーツカーを作り上げる。その結果「そんなクルマ、オッサンにしか売れない」という下馬評を覆し、「86」は世界累計販売台数が20万台を超える大ヒットとなる。

本のタイトルとなっている「どんがら」とは、鉄板剥き出しで中身も色もついていない、がらんどうの車を指す。そのデキが車の性能を左右するという。トヨタといわず、どんな会社であろうと支えるのは「人」だ。技術者に限らず、会社になにかしらの希望を抱き、それを実現しようとする者がその会社の「どんがら」となる。どう頑張っても、希望実現にほど遠いのであれば転職するのもアリだろう。しかしこの本を読むと、「希望という名の一本の糸を引き寄せるしぶとさを、自分は持ち合わせているだろうか?」と、今一度問い直したくなる。そんな1冊だ。

レビュアー

嶋津善之 イメージ
嶋津善之

関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。

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