かつて「ものづくり大国・日本」と呼ばれていた時代が確かにありました。もちろん今でも「匠の技」や日本製の製品への信頼がなくなったわけではありません。けれど著者によれば「日本製の高品質を支えていた日本の匠が危機に瀕している」のです。どういうことでしょうか……。
現在、日本のメーカーの製品であっても大部分は海外で生産されているのである。ニコンやソニーの一眼レフカメラの多くはタイ製である。(略)日本ブランドのパソコンも多くは今や中国製であるが、そもそもパソコンにおけるNECブランドは今や中国のレノボのものだ。PCにおいては、NECも富士通もすでに中国企業のブランドなのである。
著者のいうように「もはや『匠』と呼べる熟練工はほとんどタイ人か中国人で、日本では組み立てられないという、笑うに笑えない話もある」のが実態です。「日本製」という価値が静かに、でも確実に損なわれていっています。
その昔、日本製は「安かろう悪かろう」の代名詞でした。それを「まじめで勤勉な日本人」という言葉どおりの努力で日本製を「高品質な製品」として世界中に認められるまでにしたのです。それは先人たちのなみなみならぬ研鑽・努力のたまものです。ところがこうして築き上げた「日本製」というものが与える価値に疎いのが日本人です。
日本人は不思議と、日本メーカーにはこだわるものの生産国は意外と気にしないが、海外では「日本製」に価値を見出す人は多い。(略)品質が高いから値段が高くても日本ブランドのものを買おうとしているわけだから、日本製品の高品質イメージを支えている「真面目で勤勉な日本人」が作ったものでなければ、今ひとつ納得できないのはわかるだろう。
車のことを考えてみるとわかります。たとえば日本人が「ドイツブランド車を買うときにドイツ製にこだわる」ことを考えればうなずけます。
これは購入者がドイツ製という「ブランド」に信頼感を持ち、その価値を信じ感じているからです。このことから分かるのは、日本人には製品に潜むブランド力の価値をわかっていないのではないかということです。こんなエピソードがあったそうです。
筆者は以前、ある自動車メーカーの新型車(車名も新しい)の新発売キャンペーンを企画する際、その企業の宣伝部から「この車は特にこれといった機能的特徴がないので、ブランドで売りたい」と言われて絶句したことがある。その宣伝部担当者はブランドとは「なんとなく良さげな、おしゃれなイメージ」のことと理解していた。
ブランドは製品(商品)を飾り付けるようなものとして思われていたのでしょうか。ある製品に結実している特長・価値がブランドを生むのであって、製品の箔づけとしてブランドがあるのではありません。
一口にブランドといっても、それには2つの種類があります。広く一般を対象とした「マスブランド」と「限られた人に優れた製品のみを提供するプレミアムブランド」です。この本で取り上げたのはもちろん後者の「プレミアムブランド」です。
著者はこの本で、ヨーロッパ、特にBMWを中心としたドイツの自動車メーカーが(プレミアム)ブランドをどのようにして作り、育ててきたのかを追求しています。
'60年代に倒産寸前まで追い込まれたBMWは、起死回生を図って「ノイエ・クラッセ(新しいクラス)」というコンセプトで「新しい車台、まったく新しいエンジン」で設計されファミリー・セダンのBMW1500を発売しました。オーソドックスな4ドアセダンでありながらその走行性能は競合他車を凌駕」したこの車は大成功を収めます。この成功を範としてBMWは「BMWというブランドそのものを定義」することに進んでいったのです。
BMWを「運転を楽しむための車」と定義したのだ。(略)そしてBMWは、その後発売されるすべてのモデルを、この「運転を楽しむための車」というブランドアイデンティティに則って開発していくと決意する。
BMWはこの決意を胸に技術開発を進めるだけでなく、販売戦略・態勢も整備していきました。BMWらしさというブランドイメージを強化するためにショールーム内の展示車の並べ方にも世界中で統一したルールを作り出すほどでした。
興味深いのは、BMWは「客に媚びるようなことは基本的に」しないということです。
BMWは客にユーザーに意見を聞くような調査は最低限しか行っておらず、調査好きのトヨタとは対照的である。この理由は、BMWの価値を作っているのはBMWであって客ではない、という信念からである。
これは客を「ブランドのシンパ(信者)」にするということにつながります。「BMWを所有することで得られる心の満足感」によってつくられたシンパです。車という製品の特殊性もあるかもしれませんが、車は乗る(実用的)だけのものではありません。実用を超えた何かがブランドを作っていったのです。
これに対して日本のものづくりには「良いものをより安く多くの人にという正義」があると著者は指摘しています。ですがこの「正義」には落とし穴があります。
安くて品質が良いわけだから、当然買ってもらうことはできて大きなシェアは獲得できるのだが、安く作ろうとしているためにおのずと質感には限界がある。消費者からは、「実用価値以上の価値のあるもの=高い金額を出すに値するもの」とは認識されないのである。
さらに「品質さえ良ければ……」という考えも著者は迷信と一刀両断し、こう続けています。
欧州プレミアムブランドは実用価値や品質にももちろん気を配っているが、いかに高く買ってもらうか(しかも客が気持ちよく積極的に)常に多大な努力を払っていることを見落としてはならない。彼らは、ユーザーがそれを所有することによる総合的な「心の満足」をなにより重視している。裏を返せば、「ものの良さ」だけで高いレベルの「心の満足」を与えることは難しいのである。
確かに安価(薄利多売)を志向すれば、原価の安いところで作らざるを得ません。著者のいうように、メーカーが日本の会社であるだけで、実態は中国などの他国の製品ということになってしまいます。「匠」の消失(流出?)も起こるでしょう。そのとき日本の製品を輝かせていた「まじめで勤勉な仕事」も失われていくでしょう。
今こそ欧州プレミアムブランドのように「高価格でも喜んで買ってもらえる」ことを目指さなければならない、というのが著者の主張です。そのためにはなにをすべきか……。
それは「強い意志」を持つことであり、ブランドという価値に「投資」することです。さらには長期的な戦略も必須です。
彼らは自分たちが何者で、何が存在意義なのかをいつでも真剣に考えている。時代が変わっても、変化に合わせて自らの価値をいかに永続させるか戦略を練り、それを実現すべく大変な努力をしている。
その萌芽を著者は現在のマツダの戦略に見ています。マツダはかつてのBMWのように、逆境をバネにしてブランドの発信を行っています。
ブランドスローガンは、日本では「Be a Driver」(ドライバーになろう)、アメリカでは「DRIVING MATTERS」(ドライビングこそ重要だ)とした。運転の楽しさ、気持ちよさを表現しようというものである。
日本でプレミアムブランドが確立できるかどうか、著者がマツダの戦略に暖かい視線と応援を送っているのがこの本からはよく分かります。
「高くてもほしい」「自分にふさわしいのはこれだ」と思えるプレミアムブランドが日本で多く立ち上がること、その著者の熱い思いで書かれたこの本は、日本製に活力をもたらすものはなにかということを考えさせてくれます。日本の未来を探る1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。
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