ソニー入社当時の心境を共著者の辻野晃一郎氏がこう語っています。
小田急線が本厚木駅を出て相模川を渡るときに、電車の窓から、厚木のソニーの建屋に青い「SONY」のロゴがぼうっと光っているのが見える。それを見ながら何とも言えない高揚感に包まれていました。
希望した企業に入れたという喜びの気持ちのあらわれですが、この「SONY」という文字がもたらした「高揚感」を感じていたのは辻野氏だけではありません。ある時代の日本人全体にも高揚感を与えていました。それほど「SONY」の文字は「何か」を日本人に感じさせていたのです。
本書でいう「ソニーのDNA」とは「チャレンジャー精神」「ユニーク」「独自性」「こだわり」などです。そこには創業者の資質・性格というものがあらわれていました。共著者・佐高信氏がホンダの創業者・本田宗一郎氏とならべてソニーの創業者・井深大氏の2人の共通点を語っています。
初々しいんですよね。井深さんなんかも、「違う」と口を尖らせたり、そういう自然な表情は、他の経営者にはなかったですね。取り繕いますから。近寄りがたい二人の世界というのは、たぶん、お互いがドリーマーだからですよ。他の人から見ると絶対に実現しないだろうみたいな、そういう夢を語り合っていたような気がする。
この本はソニーが輝いていた時期に在籍し、企業が業績を拡大しながらも「大企業病」に陥っていった同社の姿を内側から見てきた辻野晃一郎氏と、歯に衣着せない辛口の批評で、多くの企業トップに斬り込んできた佐高信氏とがガップリ四つに組んで語り尽くした対談・対論です。
本書で2人の対話の俎上に載せられた話題は(かつての)ソニーの魅力の分析だけではありません。次いで、日本の「大企業病」を生んだ風土、さらに現在の日本の政治・経済にまで2人の批判は及んでいきます。「ソニー神話」が生きていた最後の時代の生き証人とでもいえる辻野氏のキャリアを追いながら、今の日本で失われていきつつあるもの、私たちが受け継がなければならないものを熱く語っていきます。
「チャレンジャー精神」「ユニーク」「独自性」「こだわり」などをソニーの特長としてあげましたが、これらのことは思いつくことは誰でもできます。さらに「自由闊達」という雰囲気が重要ということは誰も否定しません。ですが、誰もが重要といっているということは、裏返せばまだ充分に実現されていないということでもあります。
なぜソニーだけがそれを「実現」できたのでしょうか。入社の時から「とにかくアイデアは自分で出すものだし、人真似をするな」(辻野氏)といわれ続けたという社風には「独自性」「自由さ」を求めたドリーマーとしての井深氏の精神は確かに生きています。と同時に忘れてはならないのは盛田氏の存在です。
常日頃から「ソニーという会社は、井深さんの夢を叶える会社なんだ」と口にしていた盛田氏との絶妙なコンビネーションがあったからこそ「ソニー精神・ソニー文化」を作り上げることができたのです。もちろん盛田氏はドリーマーの井深氏を支えた単なるリアリストというわけではありません。
盛田さんは夢を抱いた人だけれど、さらに計り知れないほどの夢を追った井深大という人とのタッグの中で、夢がいっそう独自に膨らんでいった。(佐高氏)
これは盛田氏がドリーマーであると同時にリアリストであることを語っています。それは、この本で何度か触れられているアメリカの「ホームビデオ訴訟」(ベータマックス訴訟ともいいます)の例からもうかがうことができます。(この訴訟の経過はソニーのWEBページ「Sony History」https://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-20.html#block6で読むことができます)
このスリリングな訴訟の詳細は本書や同サイトを読んでいただきたいのですが、その訴訟に勝ったことで重要な流れが生まれました。
映画館でだけで流していたコンテンツが、ホームビデオによって家庭でも見られるようになり、コンテンツの二次利用、三次利用という新たな市場ができて、原告側にとっても、圧倒的に商売が大きくなった。そのきっかけは、ソニーがベータを製品化してホームビデオ訴訟で勝訴したからです。(辻野氏)
ユーチューブ、ネットフリックス、アマゾンプレミアムなどの動画配信ビジネスの「源流を作ったのは盛田さんだ」(辻野氏)というのも間違いではありません。訴訟に勝ち市場を獲得しようというリアリストの姿、さらに、このベータという商品は間違いなく新しいエンターテインメントの世界をひらくというドリーマーとしての盛田氏、という両面の姿があるように思えます。
井深・盛田の精神が生んだ企業には実に多くの個性あふれる人々が集まりました。「技術者が自己主張」するソニーには、奇人というか、いまではあまり聞かれなくなりましたが「野武士」という言葉が似合う多士済々な人々が集まったのです。辻野氏が彼らを語った章は人物スケッチとして優れた箇所です。
このような企業文化のなかで辻野氏は歩んできました。なかでも赤字のパソコン事業(バイオ)にかかわり、立ち直らせたところは技術者でありビジネスマンとしての辻野氏の面目躍如たるところがあらわれています。
けれどその時代にも影が差してきます。個性あふれる先輩たちが去っていくにつれて辻野氏のなかにソニーへの違和感が芽生えてきました。辻野氏は「大企業病」にかかった同社を去ることを決意します。
ソニーは次第に普通の日本型の企業になっていきました。組織に従順で挑戦しないものが出世し、「個」を大事にしない日本型大企業に特有の「大企業病」は一企業だけの病ではありません。今の日本そのものです。
大企業病がひどくなって、挑戦する人がないがしろにされて叩き潰されて、社内政治に長けた連中ばかりが増殖していく。何もしない人、何も挑戦しない人が上にのぼっていくのを目の当たりにして思ったのは、ソニーですらこんなふうになってしまったけれども、こんな光景は日本のあらゆる企業にはびこっているし、日本の国そのものがそうなんだということです。
一流の人が中心に残れない構造になっている。政治の世界も、安倍さんのような人が首相になって、菅義偉さんのような人がそれを一生懸命守って一強体制を誇ってる国ですから。そう考えると、大企業病というのは、そのまま日本病というか、この国全体で抱えている病だと思いますね。(辻野氏)
このように第5章では安倍政権(現在の日本)への徹底的な批判が展開されています。
一国民の目線から普通に見ていても、安倍夫妻の言動にはいろいろと問題があり過ぎで、社会を混乱させているのは明らかです。背後には、森友学園の籠池夫妻とか、加計学園の加計孝太郎とか、元TBSの山口敬之とか、JR東海の葛西敬之とか、いわくつきの人たちがたくさんいます。(辻野氏)
2人の批判は続いて自己責任論の虚妄をつき、さらに新自由主義を唱道している竹中平蔵氏にまで及んでいます。優れたビジネスマンとして歩んできた辻野氏の発言は現実を見据えながら、それでいて未来を見ているものとして私たちに届いてきます。「大企業病」の日本(=日本病)が立ち直るためには、あの「ソニーのDNA」が見直され、なにより必要だと。
日本病を食い止めるのは、良識ある個人一人ひとりの叡智や行動でしかない。そのときに我々に勇気を与えてくれるのが、世間の常識に捉われず、異端であることを厭わず、自由闊達を標榜し、個を尊重して世界から尊敬され繁栄したかつてのソニーだ。(辻野氏)
近視眼的になっている日本、内向きになり、いたずらに過去の栄光の幻想を追っている日本の空気に活を入れる1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。
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