愛していないのに捨てられないもの
「世間、大好き!」と満面の笑みで断言する人は、おそらくあんまりいないんじゃないかと思う。とりあえず私は会ったことがない。だって「世間に受け入れられる」や「世間に背を向ける」だとか、果ては「世間"様"が許さない」なんて言葉で朗らかなムードにはなれないし、むしろ反抗心がムクムク湧いてくる。「様」なんてつけちゃってさ。どこの誰がリーダーだか知らないが、確固たる地位を誇る謎の機関と立ち向かっているような気分になる。
でも自分だってそんな世間の一部であり、世間にそこそこ守られていることも事実なので、鴻上尚史さんのエッセー『世間ってなんだ』はよくしみる。切れ味抜群。ああ痛い痛い。
ちっとも愛していないのに捨てられない「世間」の姿と、そこに生きる自分がよくわかる本だ。愛していないのに捨てられないなんて言っちゃう自分の不実さだとか、どこが愛せないのかだとか、じゃあどう付き合いたいんだろうかを恐る恐る考えながら読んだ。
なにせ冒頭からこんな話が飛び出て「いてて」となるのだ。
「日本的な快適さ」は、2時に必ず、お店が開くことを保証します。いえ、さらに進んで、誰かが、太陽を浴びることなく働き続け、昼休みも同じ水準で仕事が続くように保証します。
先進諸国という分類に堂々と入るイギリスでさえ、青空が続くと、国民的規模で、昼休みを長く取るのです。(中略)
この話は、長くなるので、今回はここでやめておきますが、ひとつだけはっきり思っていることがあります。
それは、「日本的息苦しさ」を嫌悪しながら、「日本的快適さ」を求めるのは、虫が良すぎるということです。逆に言えば、残念ですが、それほど、人間は賢くも強くもないだろうということです。
そう、帰国直後はパリッとキレイな日本のタクシーに感動して「なんでこれが実現できるんだろう? 無茶じゃない?」と思うが、やがてそれが当たり前になる。そしてヨーロッパの薄暗いホームで豪快に遅れる電車を腕組みして待ちながら「まあ、しょうがないよなあ」とボンヤリする私が日本とそれ以外の国どちらを愛しているかというと、わずか数ミリの差で日本が勝つ。
さあ、この賢くも強くもない私達は、世間の息苦しさにフウフウ言いながら生きているが、せめてもうちょっとラクになる道はないの? ほんと、世間ってなんなの?
CIAが考えた「敵国の組織をダメにする」方法
世間の圧力や残念なところを鴻上さんは優しい口調で指摘する。たとえば鴻上さんが「唸ってしまうくらい「的確」なんですよ」と評した第2次世界大戦時のCIAの秘密資料「簡単なサボタージュの方法」は、嘘でしょってくらい日本の世間や組織のめんどくさいところを表している。鴻上さんの感想とあわせてごく一部を紹介したい。
●可能な限り案件は委員会で検討。委員会はなるべく大きくすることとする。最低でも5人以上。
●なるべくペーパーワークを増やす。
●すべての規則を厳格に適用する。
どうですか? これが、CIAの前身組織が、「敵国の組織をダメにするために実行しろ!」と定めたマニュアルの一部なのです。今、日本でこのマニュアルに当てはまらない組織は本当に少ないと思います。(中略)
僕は自由業なので、「可能な限り、案件は委員会にして、最低5人」という記述に、とくに唸りました。企画会議や製作者会議なんてのは、5人以上になると訳が分からなくなって、間違いなく、失敗するか平均を取った凡庸(ぼんよう)でつまらないものになるのです。
一言も発言しない地蔵のような10人と、ペチャペチャ話すがまとまらない5人とで珍妙な空気を醸し出す地獄のような会議はしんどい。CIAが指南する組織をダメにするサボり方をまんまと実行する日本の組織について鴻上さんはさらに続ける。
けれど、みんなそれが一番いい方法だと信じているのです。(中略)
まったくの正当性を持って、少々の不自由さは感じても、組織をダメにしようなんて明確に思いながらやっている人はいないと思います。
そう、ダメにしようなんて思っていないのにダメになっちゃう。ナチュラルに実行しているのだから、CIAの出る幕なしだ。
「社会」の人に向ける言葉
世間の息苦しさを痛快に語る本ではあるけれど、居酒屋の片隅で「世間ってやだよね、参っちゃうよね」と言い合ってスッキリするようなことは主題としていない。
息苦しい世間から視点をフワッとスイッチできる本だと思う。舞台では照明や役者の気配がいつのまにか変化して別の世界に引きずり込まれる瞬間があるが、まさにあれを味わった。
僕は、日本には「世間」と「社会」があると繰り返し言っています。「世間」とは、今か将来、あなたと関係がある人達のこと。会社・学校・仲間・近所なんてことですね。「社会」は今か将来、まったく関係ない人達のこと。電車の隣の人、すれ違う人、など。
で、私達日本人は「世間」に生きています。(中略)
「世間」にだけ生きていると、「社会」の人との会話が苦しくて不得手になります。
「世間」と「社会」の定義を経て、私達の「社会」との関わり方を鴻上さんはあぶり出す。
電車の中でイヤホンから音がシャカシャカ漏れている時、イラついて「いい加減にしろよ!」とか「うるさいよ!」と思わず叫ぶ人がたまにいます。(中略)
相手が「世間」にいる人だと、こんな言い方はしません。友達だと「音、ちょっと下げない?」でしょうか。(中略)
でも、相手が「社会」に属している人だと、なかなか言えなくて、ガマンにガマンを重ねて、結果、爆発して「いい加減にしろよ!」となることがあると思うのです。(中略)
この時、「いきなり怒鳴らなくてもいいでしょう」と叫ばれた人が言ったとして、「そんな大きな音を漏らしても平気な奴は、怒鳴らないとわからないんだ」と叫んだ人が答えたとしたら、この状態を「『社会』に対する信頼が足らない状態」だと僕は思っています。
殺伐とした息苦しい車内が目に浮かぶ。こんなふうに信頼がない状態で、「社会」に対する言葉がとても乏しい状況で、コロナが始まった。この約2年のあいだに世間が放った圧迫感を私は今も消化できていないし、ずっと困惑している。
でね、こんなコロナの状況の中、「社会に対する信頼」が足らないまま、ネットの書き込みをしていくと何が起こるかというと、怒鳴り合いとか中傷とか罵倒(ばとう)とか、言いっ放しの状態が出現するのです。(中略)
穏やかに話せば、解決するかもしれない問題も、すべてこじれます。(中略)
どんなに苦しくても絶望しても、「『社会』を信頼する」言葉を重ねていくしか、未来を作っていく方法はないと僕は思っているのです。
このくだりと最後の「あとがきにかえて」を交互に読むと、心が静まり返って、やがて泣けてくる。世間の息苦しさに対する処方を劇作家が書くとこうなるのか、と思った。痛切だった。
本書は鴻上さんが1994年から書き続けてきたエッセーをもとに構成されている。後半に進むに従って「2022年の日本」と「言葉」に焦点が絞られていくさまがとても好きだ。世間と社会と言葉、そして物語をめぐる、踊るような1冊だ。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。