小さいころ、授業で「心はどこにあるのか」と聞かれたことがある。胸を押さえる子もいれば、頭を指さす子もいた。先生の答えが何だったのか、今となっては覚えていない。ただクラスメイトはみんな、自分たちでもわからないなりに身体のどこかに「心」が「ある」と思っていたし、私もそうだった。そして大人になればその答えがわかるようになり、きっともっと豊かで複雑な心を持つようになっていくものなのだろうと、なんとなく信じていた。
そんな幼い頃からの考えは、本書によって鮮やかに否定される。
本書で著者は、心には表面しかない(マインド・イズ・フラット)〔本書の原題は The Mind is Flatである〕、と読者を説得したい。心の深みという、その発想そのものが幻想だ。心に深さがあるのではなく、心は究極の即興(そっきょう)家なのだ。行動を生み出し、その行動を説明するための信念や欲望をも素晴らしく流暢(りゅうちょう)に創作してしまう。しかし、そうした瞬間ごとの創作は、薄っぺらで断片的で矛盾だらけ。映画のセットがカメラ越しには確固たる存在に見えても、じつは張りぼてなのと似ている。注〔〕くくりは訳者による補足を示す。
この力強い断言を前にすると、「心の奥底」や「心の闇」といった、日常的に聞く言いまわしが陳腐にも思えてくる。確かに、私の考えは根拠のない思い込みだったろう。だがどうしてそれほどはっきり、著者は断言できるのか? ──ふと浮かぶ疑問に応えるように、本書では著者の主張が大きく二部に分けて示される。第一部では「心の深みという錯覚」について、第二部では「即興が『心』を創る」と題して、知覚(特に視知覚)を主な例にとり、さまざまな事実を紹介しながらその提言を実証していく。
著者はイギリス・ウォーリック大学経営大学院教授であり、認知科学の理論家として知られている。訳者解説によれば、原著は2018年にイギリスとアメリカで発売されたのち、アメリカ出版協会PROSE賞(臨床理学部問、2019年)を受賞し、その後、さまざまな言語に翻訳されているという。
実に刺激的な冒頭から始まる本書だが、その勢いは最後まで止まることなく広がっていく。それは
本書のアイデアの源泉は、認知心理学や社会心理学や臨床心理学、さらには哲学や神経科学まで幅広い。
とあることからもわかるように、それらの学問でこれまで当たり前とされてきた解釈や通念を、いかに考え直し、捉え直していくかについても、著者は手をかえ品をかえ事実と実験結果を提示する。
たとえば第二章では眼の解剖学の基礎知識から、人は自分の視線からある程度離れたものについては色を知覚せず、白黒でしか見ていないという例が示される。そして私たちが視覚によって得ている情報も、目に映ったすべてを一度に掴んでいるわけではなく、ごく一部のみを見ているに過ぎないと明かし、こう語る。
本章で見たのは、自分の感覚経験の豊かさや整合性についてさえ、まんまと騙されている、ということである。私たちは、きめ細かくて色とりどりの世界全体を見ていると思っている。だがそうではない。そしてあまりに包括的なこのぺてんは、ときに哲学や心理学において「大いなる錯覚」との名で呼ばれている。
すると結局、どういうことになるのか? 感覚される「世界」は、ちっとも確固たるものではない。それは物語の世界や、ものごとの日常的な説明の根拠があやふやなのと同じことなのである。
このことから著者は、私たちが心を「確固たる存在」と感じることについても、表面的な見せかけでしかないと喝破する。「突然そんなことを言われても!」と思う気持ちもなくはないが、人体に関する事実を一つずつ、丁寧に積み上げられた後では、納得するよりほかはない。333ページという本書の厚さもさることながら、勢いよく突きつけられる論証の山に、最後は満腹感でいっぱいになった。
難しい内容ながら、訳者2人による自然な翻訳には多くの部分で助けられた。知識が足らずとも楽しく感じられたのは、その力によるところが大きいだろう。研究者の方はもちろん、タイトルに惹かれた方にも、翻訳の妙と刺激的な内容を存分に味わってほしい。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。