ある女性の横顔と頭の中
彼女の本を読むと私は「あとがき」に興奮してしまう。サクサクと誰にでもわかりやすく脳や人の心を説いて憑物を落としたあと、ふいに生っぽい横顔を見せ、さっと通り過ぎていく気がするのだ。アイコンや記号じゃないデリケートでやわらかい人間の匂いがする。
同時に「中野信子」という記号は私のまわりにたくさん浮かんでいる。本屋に行けば棚を見渡す必要もなく著作は表紙が見えるように面陳列で並んでいるし、毎晩お風呂の中で読むVOGUEやエル・ジャポンでも対談記事が何度も掲載されている。いったい、この人は誰なのだろう。
……と思ってきたので、中野信子さんの初めての自伝である『ペルソナ 脳に潜む闇』は楽しかったし、いつも以上に恐る恐る読んだ。「あとがき」で感じてきた横顔よりももっと濃密な頭の中を目の当たりにする、静かで荒々しい本だったからだ。誰かの頭の中なんてお邪魔してもよいのかしら、という気持ちになる。
ネットのせわしない、強迫的に思考を奪われていくような言語空間とは異なる、静かで温かい思索が、人間には必要だ。
1人の時間にゆっくりと読んでほしい。この本のなかで、中野信子さんは自身の闇をいくつもの角度から描く。そして、誰だって自分の闇に飲み込まれて命を落とす可能性があると語り、「己の闇を見つめること」を「心のワクチン」と呼ぶ。
2020年は誰にとっても心が落ち着かないアンバランスな1年で、未決着のまま2021年も始まりそうだが、そんな奇妙な時期にこの本が差し出す「抗体」は、私たちの心が世間と対峙するときの静かな武器と鎧になるはずだ。
手を引かれるようにしながら闇に潜る
この本は通常の自伝とは異なり「現在」から少しずつ「過去」に分け入っていく。コロナのこと、テレビ出演のこと、結婚のこと、フランスで研究者として働いていたこと、学生時代のこと、そして幼いころ。引用してもいいのだろうかと迷うくらい率直に綴られている。
男に生まれなおしたいな、性転換というのもありだな、とも思っていたが、さすがに男になるには背がさほど高くもなく、残念な感じになりそうだから、数年かけて自分を説得して、これはあきらめたわけだけれど。
女が社会で生きるうえで感じる「つれえな」が何度もエッジの効いた言葉をつかって語られる。そして博士課程時代のくだりも忘れられない。
博士課程に進めばだれでも偏屈になっていく、というものではない。だが、博士課程の在り方そのものが、人を孤独にしていく。(中略)
孤独が悪いとか、不快だとかいっているわけではない。ただ、誰とも通じ合えない世界が自分の中に広がっていくのである。
まるで、自分にしか見えない絶景を、誰にも伝えることができずに毎日一人で見させられているような気分だ。
とっぷりと日が暮れて薄闇に包まれるような気持ちになる。もっとプライベートな内容をセンセーショナルに切り出すことはできるけれど、それはこの本が意図することとまるで違う気がする。この本のところどころに次のような強い言葉があらわれるのだ。
(前略)原則として親子との問題は、他人が立ち入るような問題ではないと私は思う。水族館の水槽の外から観察していてもらうくらいのことは構わないが、それ以上のアドバイスは求めない。不要である、という以上に不快だ。
とてもよくわかる。だから一歩ずつ足元を確認するように読み進めた。
多くの人は自分の一番奥にある過去については口をつぐみがちだ。なのに、この本は抑制をきかせつつ静かにそれらを語る。そして読めば読むほど「ああ、わからない」と迷子になってしまう。
「わたしはこういう人」と本当に言い切れる?
そう、迷子になる本なのだ。誰かの心についてチャチャっと「答え」を探すことがそもそも誤りだし、そりゃ「脳に潜む闇」という題名なのだから当然だ。
私は、自分の思考がモザイク状、もっといえばキメラ状(異なる遺伝情報が混ざった状態)にできているのを感じることがしばしばある。一貫性を持たせることは難しく、意外かもしれないが、これは自然にできることではないのだ。(中略)
ほとんどの人は少なくとも自分で見える範囲内だけは滑らかに化粧して、驚くほど能天気に、自分は一意に定まるもの、と信じ切っている。
「人間は一貫していない」「わたしは存在しない」ことをゆっくり味わえる。ときにホドロフスキーの『サイコマジック』やハグボーグの『Stranger Visions』などの現代アートをも交えつつ、「わたし」を見つめてゆく。
人は、自分がこういう人間だ、と認知の中に像を結んでしまうと、それを変えることがなかなかできない。状況が変わって、違和感を覚えたり、不本意で居心地悪くなっても、その姿を最後まで貫こうとしたり、無理してでも貫き通した方が美しいと感じたりする。(中略)
自らの立場をひとたび明確にし、それにコミットしてしまうと、途中で変更することにストレスを感じてしまうのだ。
一貫していないのに「~らしく」と肩書で自分を縛ってしまう苦しさに覚えがある人は少なくないはずだ。途方に暮れそうになる。でもそれは真っ暗闇じゃないことを脳科学の視点から教えてくれる。
考えを環境に合わせて微調整する、という実に精密なことを脳はやってのけているのに、私たちは同時にそれを「内省」して「恥じる」。人がブレる様子を目の当たりにするとき、私はそれをちょっとうらやましいと思う。高次な機能を駆使して、他者と自分との間の心地よい間合いを測ろうとしているのである。カッコ悪いと感じるどころか、なんと精妙な器官/機関が働いているのだろうかと、むしろ感動すら覚えてしまう。
この距離感が小気味よい。中野信子さんが取り扱うテーマは人間の綺麗じゃない部分が多い。だからどぎつい印象を持たれがちだけど、少し離れた場所からじっと見つめるような冷たさと温かさがある。そして、なぜその視点を得たのかがこの本を読むと少しわかるはずだ。とても切実な理由から学問と人生を選んだ人なのだ。
最後に私が一番好きだった箇所を引用したい。自身を「気難しい子であったと思う」と語り、母親について「私を扱うのにたいへんな思いをしただろう」と思い返したあとの言葉だ。ヒリついた心に塗り薬のようにしみる。
(前略)べたべたとそれに報いようとして上滑りな感謝の言葉を伝えることは、あまりに空々しくてかえって失礼ではないかとも思うのだ。実のある感謝の伝え方とは、悠々と生き延びて生を謳歌することそのものではないのか。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。