人生は苦である──。まさに。そういう苦しい時に心を解放してくれる人生論にすがりたくなる。でも人生論という薬は、えてして効き目が現れるのに時間がかかる。曰く、明けない夜はない、道はいつか拓ける。今まさにこの瞬間を幸福にはしてくれない。
だが、本書は違う。読むそばから、生きづらさから自分を解放してくれる。ページをめくるたびに自由を実感できる。そんな人生論である。著者の言葉は、じつにシンプル。今ここに、生きていればいい──。ありのままの自分で世界に向き合えばいいのだ。
自然界の出来事は自然法則に従い必然である。同じく人が老い、病気になり、死ぬのもやはり必然である。しかし、人間には自由意志がある。自分がどれほど空腹であっても、自分よりも食べ物が必要な人がいたとすればその人にそれを譲ることができる。自由意志があればこそ、苦しみの中でも生きる価値を見出せるのだ。
困難な状況を受け入れた時、それはその人の選択となる。
病、老い、死……。人間はあらゆる苦しさから逃れられない。しかし、人は自分の意思で何をするかを決めることができる。それが人間の尊厳だと著者はいう。これまでどんな人生を送ってきたとしても、あるいは今現在どんな苦境にあったとしても、誰もが自分の人生を意味づけることができる。人生を選び取る自由を手にしている。それが、「今ここ」に、「ありのまま」に生きることであり、すなわち幸福なのだ。全編を通して著者はそういっている。
一方、生きるのが辛くてもう死にたいという思いに駆られている人は、自分の価値を見いだせていない人だ。自分の価値を無自覚に世間的な尺度で測ってしまう。他者からどう見られるか、成功してるか、生産性があるか、否か。そんなふうに他者の顔色を気にしてしまう。それでは自分の人生を自分で生きられない。
仮にそれで、世間的な成功をおさめたり、生産性を上げたりしたとしても、けっして幸福にはなれない。なぜならそれは他者の人生であって、自分の人生を生きることにはならないからだ。自分の人生を生きるという課題に向き合えていない。
著者岸見一郎氏といえば、ギリシャ哲学が専門の哲学者であると同時に、今やアドラー心理学の第一人者さらにいえば伝道師、としても知られている。本書でも要所要所で挟まれるアドラー心理学のエッセンスが説得力をもつ。
例えば、自分の人生を生きられない人が日常コミュニケーションの中で多用する「劣等コンプレックス」。いわば不幸のメカニズム、をこう説明する。
学生であれば試験を受けなければ結果は出ないので試験を受けないでおこうと考える。対人関係についても、人と関わらなければ傷つくこともないと考えて学校に行かなくなったり、引きこもったりする。
課題から逃げるための理由が必要である。Aだから(あるいはAでないから)Bができないといい、このAとして誰もが納得しないわけにはいかない理由を持ち出すのである。
いやあ、身につまされますね。日頃のあれもこれもが。
こうした不幸メカニズムから脱却するヒントは日々のささやかな経験にあるのだろう。「今ここ」の瞬間瞬間を逃さないことだと思う。
岸見氏のあの大ベストセラー『嫌われる勇気』から早7年が経つ。アドラー心理学の真髄を今回はどう紹介するのだろうか。そのことは、本タイトルを近刊案内で見て、読む前から気になっていた。1冊読み通してみて、はたしてその中身は想像以上の最新アップデートだった。
アドラーだけではなく、岸見氏が思考の糧にした専門のギリシア哲学や、キリスト教、仏教、日本の近代思想、そのほか古今東西の思想を元にしながら、岸見氏が日々の実践的な解釈(時には批判も)を加えながら書きかえていく。現在進行形の、つまり「今ここ」でのまったくオリジナルな岸見流人生論となっていることに驚いた。
その秘訣はごく私的な幸福感を、ごく自然体で語っていることにあると思った。
ある日、認知症の父親と自宅の庭で。椿の花の蜜を吸いにヒヨドリが枝に止まって声をあげて笑い、そばで見ていた著者自身も喜びが込み上げ、過去も未来も関係なく父とのつながを実感できた話が出てくる。
また、吃音に悩む著者知人のタクシー運転手のある日の一幕に。それまで腫れ物にでも触れるようにしか接してもらえなかった(自身も「どもり」に触れさせなない雰囲気を作っていたという)彼が街中で拾ったお客さんと道順について一言二言の応答した際、即座に「おっちゃん、よう噛むな」と言われて、すっーと心のバリアが溶けていった話があった。
どんなささやかな経験も、自分に価値がある人間だと思える、大事なきっかけなのだ。ありのままの自分を受け入れるための練習問題の数々が本書には詰まっている。その一題一題が幸福に生きるための大いなるヒントである。
はたして自分はどうすればよいか──。
「今ここ」で自分にとって良き選択を、良き解釈をすればいい。
自分の価値を自分で決めることの尊さを教えてくれる1冊だ。
レビュアー
出版社勤務ののち、現在フリー編集者。学生時代に古書店でアルバイトして以来、本屋めぐりがやめられない。夢は本屋のおやじさん。