バズワード、量子コンピュータ
本書は次のような一文ではじまっています。
昨今のAI(人工知能)やブロックチェーン、最近ではメタバース(3D仮想空間)など、IT業界はバズワード(流行語)に事欠かない。
それらの中にあって、量子コンピュータは別格かもしれない。
Buzzとは「ハチがぶんぶんいう音」のこと。つまり、Buzz wordとは「定義がハッキリしないのに語られるうるさい言葉」という意味です。
ITの世界ではその進展が速いせいもあって、バズワードが次々と生み出されてきました。ちょっと古いものでは「ウェブ2.0」、わりと定着したものでは「クラウド」があります。
バズワードを論の中心に置いたおかしな発言もずいぶん見ました。バズワードとは「見識がない人がふりまわす新しそうな言葉」と語っても、実状とそう離れてはいないでしょう。
本書は、現在もっともよく語られるといっていいバズワード「量子コンピュータ」の現在を、「どこから研究がはじまったのか」「今はどういう状況にあるのか」「どういう原理で動くのか」「何ができるのか」「何が懸念されるか」などの切り口から、わかりやすく語ったものです。本書を読めば、「量子コンピュータ」という新しい言葉にふりまわされることはなくなるでしょう。
コンピュータは古典だ。進歩していない
ナチスの暗号を解読し、連合国の勝利に大きな貢献をした偉大な数学者アラン・チューリングのドラマチックな生涯については、映画などに描かれているのでご存じの方も多いかもしれません。彼が暗号解読に使った機械は、学校の教室なら入るかな、と思える巨大なものでした。
あの機械より、今あなたが持っているスマホやケータイのほうが、計算機(コンピュータ)としての性能ははるかに上です。どうして単純比較が可能かといえば、まったく同じ原理で動いているからです。
ITの世界は進歩が速いといわれ、実際にすさまじいスピードで進展してきました。しかしコンピュータそのものの原理は草創期からまったく変わっていません。
「コンピュータは0と1である」と聞いたことがあるでしょう。雑にいえば、コンピュータとはすべての数字を0と1ふたつ(2進数)にして計算をおこなう機械のことです。あなたのスマホがチューリングの機械より優れているのは、この計算の速度(処理速度)がいちじるしく速いからです。あなたが動画だと思い写真だと思い文字だと認識しているものも、コンピュータにとっては単なる0と1のカタマリであり、区別はありません。
こうしたコンピュータを、本書では「古典コンピュータ」と呼んでいます。
古典だって? 今でも進歩を続けているじゃないか!
そう思う人も多いかもしれませんが、この技術は古典力学(中学高校で学ぶ。大成者は16世紀のニュートン)に基づいており、それゆえ「古典コンピュータ」と呼ばれるのです。
量子コンピュータとはなにか
コンピュータに古典力学ではなく、量子力学を取り入れたのが量子コンピュータです。とはいえ、これを解説するのは容易なことではありません。本書も量子力学を「難解・深遠である」と語っています。
本書でも引用されている「シュレーディンガーの猫」という有名な思考実験では、箱の中に猫を閉じ込めて放射線をあてた場合、猫が死んでいる状態と生きている状態、それぞれが同時に存在するとしています。
なんのこっちゃというのが常識的な感覚でしょう。猫は死んでるか生きてるか、どちらかしかあり得ません。そう考えるのは私たちだけではないようで、アインシュタインもこの考え方に接し、「神はサイコロを振らない」と語ったと伝えられています。つまり、量子力学とはアインシュタインでさえ受けいれられないようなものなのです。
幾多の実験において、量子力学(ミクロの世界の物理法則)ではこれが現実であるということが立証されてきました。量子コンピュータとは、これをコンピュータに応用したものです。従来のコンピュータは、0か1、どちらかに決定することで演算をおこなっていましたが、「0であると同時に1でもある」という量子力学の考え方を取り入れることで、無限にちかい可能性を手に入れることが可能になったのです。(これをSF的に解釈したのがパラレルワールドです)
すなわち、人類ははじめて「新しい原理で動くコンピュータ」を手に入れたことになります。そのパワーは破壊的で、スーパーコンピュータを使っても数万年かかる計算を、わずか数分で解くといいます。
ちなみに、自分が最初に思ったのは計算が速くなってもたらされるメリットではなく、デメリットのほうでした。「それって、やばいんじゃないの」と思ったのです。
われわれがネットショッピングを楽しめるのは、暗号化技術があるためです。クレジットカードの番号が第三者には見えないからこそ、安心してネットで買い物ができます。暗号は素因数分解ができればかんたんに解くことができますが、数字が大きくなるとスパコンを使っても計算に何万年もかかるため、暗号としてもちいることができていたのです。
それを数分で解けるということになれば、暗号化技術も考え直さなければなりません。
むろん、自分が心配する程度のことは誰もが心配しているので、本書には「次世代の暗号化技術」がいくつも紹介されています。
むしろ問題はもっと大きなところにある。本書はそう語っています。
「0であると同時に1でもある」という不可思議な物理状態を扱う量子コンピュータは人類の科学技術、いや文明を次なるフェーズへと導く歴史的な発明だ。ちょうど古代の人類が青銅器から鉄器時代へと移行したような、いや恐らくそれ以上に大きな意味とインパクトを世界にもたらすだろう。しかし、そのようにパワフルな超高度技術を適切に管理し、平和的に使いこなせるほどの倫理水準に現在の人類は到達したと言えるだろうか。
ただし――本書を通読すると、次のこともわかってきます。
「おれが量子コンピュータを使うことはたぶん、ないだろう。実用化される前に死ぬからだ」
現在稼働している量子コンピュータは本格的な実用機というよりも、未だ“試験機レベルの製品”である。産業各界で今、こうしたマシンを使っている企業は、将来、量子コンピュータの性能が大幅に向上して実用化の段階に達した時に備え、今からそれを使い始めることで、量子計算に習熟した人材を育成しておくのが主な目的だ。言わば「お試し利用」と呼ぶべき段階である。
仮に将来、量子コンピュータが本格的に使われるようになっても、少なくとも当初は今と同じようにクラウド型サービスとして提供される見込みだ。なぜなら、量子コンピュータは希釈冷凍機内に収められたシリンダーや複雑な配線など大規模な機材で構成され、その値段はおおむね1台10億円以上と極めて高額であるからだ。このような代物を、今のパソコンやスマホのように1人1台で保有することはまずあり得ない。
なお、著者による解説はこちらで接することができます。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。
https://hon-yak.net/