些細な景色が美しい
パリに行くと帰りがつらい。さみしいのだ。いつも「どうやったら帰らないですむんだろう?」と出国ゲートに向かう。未練たらたらすぎて、出国ゲートの先にある土産物屋を用もないのに入念に見てしまうし、いっそのことエッフェル塔の巨大キーホルダーを買っちゃおうか、とすら思う。
何がそんなに恋しくさせるのか? 美しいから? そう、美しい。
それをいうならミラノもプラハもチューリヒも美しい。それにパリは「花の都」なんて呼ばれているけれど、子どものころに想像したようなピッカピカにかぐわしい街ではない。(いわゆるフレンチルックの女の子はぜんぜん見かけないし、反対に犬の“落とし物”にはよく遭遇する)
でも、思い出すとあの空気を胸いっぱい吸い込みたくなる。やっぱり格別に美しい。
じゃあ、モナリザがあるから美しい? パトゥの香水が手に入るから? ちがう。歩いているだけでどんどん好きになるのだ。だから『パリ歴史探偵』で語られるパリに身悶えした。
本書の主役は、パリの名だたる観光名所ではなく、ほんの些細な風景たち。そのひとつひとつの断片に歴史と芸術家の青春の名残がただよう。目に見えないものがうっすら積り続けたはての美しさだと思う。
たとえば「パサージュ」と呼ばれる古い商店街。
パサージュの本場といえば、やはりパリにとどめをさす。その大半は一九世紀前半につくられたもので、化粧直しして今の時代に合わせようとがんばっているパサージュもあるけれど、パサージュの魅力は、時代遅れで、時間がとまったような雰囲気にこそ存在する。そんなパリの抜け小路をいくつか彷徨することにした。
そう! シンプルで古い小路なのに頭の中に多層構造の迷路ができるようなあの感じ。私もパサージュが大好きだ。見つけると必ず寄り道してしまう。あの魔法のような魅力を本書は歴史と文学をもとに紐解く。
わたしがパサージュ・ショワズールを訪れるたびに思い出すのは、次のような書き出しの手紙なのである。
「親愛なる先生、ぼくたちは愛に溢れる時節におります。ぼくは一七歳なのです。」
(略)この手紙は、『高踏派詩集』の版元「アルフォンス・ルメール書店気付」で投函されている。ルメール書店といえば、詩人として名をなそうと夢見る当時の若者にとっては憧れの本屋であった。そのルメール書店が、このパサージュの四七番地に店をかまえていたのだ。
この美しい手紙の送り主は19世紀を代表するフランスの詩人、ランボーだ。およそ150年前にこんなドラマがあったなんて。そしてその手紙が届いたパサージュが今も残っているだなんて。たぶん私はここを歩いた。なにも知らず、エミール・ゾラやランボーを読まずに行ってしまうなんて。本当にもったいないことをした。
小路、古い城壁、廃線、はては公衆トイレにも歴史の名残は宿る。そしてパリの古い風景画も当時の記憶が描かれている。本書に登場するアンリ・ルソーの『サン=ニコラ河岸から見たシテ島、夕暮れ』が、世田谷美術館で運良く公開されていたので先日見に行った。旅するように絵と向き合えた。読んでよかったなあ。パリの街並みがもつ古い記憶をゆっくり堪能できる1冊だ。
歴史探偵、パリの「しわ」を愛でる
中世の石工が大建造物にのこしたサイン、道のちょっとした階段……本書が取り上げるパリの景色はどれも探偵のように注意深く見つめて歩かないと気がつかないものばかり。著者は古地図や通りの昔の名前をもとに歴史を解き明かしてゆく。
顔のしわは、その人の生きざまを刻みこんでいる。道とは、都市という顔のしわにちがいない。のっぺりした通りは、たぶんひとつの歴史しか持っていない。ひしゃげた不細工な通りにこそ、深い歴史がひめられているのではないのか。
しわを虫眼鏡でなぞるようなパリ探索に連れ出してくれる。旅先でふと感じたものに名前を与え、綺麗にファイルしていくような本だ。パリの古い記憶と共に著者が抱くパリの記憶も分けてもらえる。
3章「昔のガイドブックから」で作者が注目するのは19世紀の『パリ=ディアマン』という案内本。では、歴史探偵はどこを手がかりとするのか?
一般情報の部分は六〇ページほどで、「公共交通機関案内」「ホテル・レストラン案内」「その他の情報という三部構成となっている。
「観光名所」ではなく「一般情報」。わかります。『地球の歩き方』でも冒頭にある通貨や交通機関の解説が妙に面白いもんなあ……。
なお、扉の見返しのところには、「本書の記載事項、推薦項目などは、完全に無報酬です」と注記されている。要するに、金をもらって店の名前を挙げたりしてはいませんよと、ことわっているのである。
このちょっとしたディテールがいい。『パリ=ディアマン』が綴る19世紀のパリを、作者は当時の旅人として読み解くのだ。私も同じように時間旅行を味わえた。
ゾラが読みたい!
著者である宮下志朗先生は仏文学者だ。古地図に加え、折々で紹介されるフランス文学がパリの時間旅行に深みを与えてくれる。きっとゾラを読みたくなるはずだ。たとえばバスチーユの裏通りにある居酒屋の「薪、石炭、ワイン、リキュール」という妙な看板。ここから次のような推理がなされる。
この薪・石炭という燃料とお酒という組み合わせ、今でもパリの街角で時折見かける。昔はきっと生活必需品を商う「よろず屋」であったにちがいない─わたしはふと、ゾラ『ジェルミナール』に出てくる北フランスの炭鉱住宅のメグラの商店を思い出して、このように推理した。こうした店では、薪や石炭を買いに来た客を横目で見ながら、カウンターで一杯やってる連中もいたにちがいない。
宮下先生の想像力がどこまでもドライブするさまと、ゾラの小説への愛がたまらなく楽しい。ラディケの『肉体の悪魔』を読んだ若者は、舞台となったマルヌ川をどんな気持ちで歩くのか? アニメファンが作品の舞台となった土地を詣でる「聖地巡礼」に通じるものがあるが、よりドロリとした面白さがあった。自分が夢中になった芸術作品がうまれた場所に足を運び、その世界の一部となってただただ歩くことは、本当に豊かで幸せな行為だ。
パリは美しい。でも、きらびやかなだけじゃない。清濁あわせのむような魅力を指でなぞりつつ、今のパリ、そして中世~19世紀のパリを旅できる本だ。ぜひ地図とゾラをお供に読んでほしい。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。