「食」と「食卓」から見るイスタンブル史
旅行先で市場やスーパーマーケットを見て回るときの、あの胸躍る感じ。持ち帰れるはずもないのに肉の部位や捌きかたをそっと観察して、見知らぬ野菜とおなじみの野菜が並ぶワゴンの匂いを吸い込んで、ミルクを探し、用途不明のスパイスを思わず買ってしまう。
「食」って面白い。だって、その国の歴史と文化がつまっているからだ。お腹を満たすだけじゃない。その視点で考えると、トルコのイスタンブル(=君府)の食は、なんとも豊かで芳しい世界であることがわかる。
『食はイスタンブルにあり 君府名物考』は、13世紀末からはじまり20世紀初頭まで続いたオスマン帝国の、「食」を通して歴史と文化を知る1冊だ。グルメガイドよりも深く「古都・イスタンブルの食」を教えてくれる。たいらげるように読んでしまった。
あらゆる肉、野菜、乳製品、果物、スパイスが登場する。味付けも多彩だ。濃厚なもの、あっさりしたもの、甘いもの、酸味がきいたもの、食後の冷たいデザートにお茶と珈琲……行ったことのある人ならばあらゆるページで「ああ!」と身悶えするはず。そしてイスタンブルの「美味」の答え合わせができるだろう。
それにしても、本書で描かれる「食」はなんて美しいのだろう。裕福な人の食卓も、貧しい人の献立も、政治の会食も、どのテーブルにもお邪魔したくなる
かつてラマザン月の夜の富裕な人々の招宴では、果汁を絞りかけるときに種の落ちぬように、半分に切ったレモンを薄絹の小片に包み、美しい彩りの絹糸でしばり、食卓を飾ったという。
(前略)イスラム暦の金曜の夜には、当時も貴重な甘味であった、蜂蜜(アセル)と、ジャスミンも与えられるべしとされている。
「御前会議」のメンバーたちが食事を終えると、また手洗い鉢と水差しとタオルが持ち込まれ手を洗い、さらにバラ油と香油で食事の残り香を消した。
夢でもいい、香りを胸いっぱい吸い込みたい。
公定価格表から「食」を読み解く
はるか昔オスマン帝国時代の食をどう探るか? 本書は“公定価格表”や“古料理書”から紐解いていく。西暦1640年の公定価格表がちゃんと残っているのだ。公定価格表には当時のオスマン朝の単位と共に品名がずらりと並び、ここからもトルコの歴史(と、豊かな市場)が見えてくる。
たとえば乳製品。単位とともに紹介したい。
一ヴキエは約一二八三グラムで、当時の一アクチェは(中略)邦価約三〇円
さて肝心のバターはといえば、同じ価格表に、最下級品でも一ヴキエ一六アクチェ、極上品ともなれば一ヴキエ二四アクチェもしたというから、華の君府の庶民にも、そうそう買い求め易い食材ではなかったことであろう。
バターにグレードがある……!
これに比べて乳製品のなかで、庶民にも手のとどき易い優等生は、(中略)濃度の薄い下級品で二アクチェの品さえあるヨーグルトと、そして、チーズであった。
このあとに続くチーズの種類の説明がなんとも美味しそうなのだ。知らないチーズでいっぱい。(そのうちのひとつ「カイマク」を食べてみたくてしょうがない)
ヨーグルトやチーズが重用されているのは、“遊牧トルコ民族”の遺産を受け継いでいるからだと著者は説く。そして、肉は庶民の口にはなかなか入らない……が、大切なときには欠かせない食材だったのだという。イスラムにとってお正月のように大切な犠牲祭では、貧しい人も肉を食べることができた。
アッラーのお恵みによって、首尾よく犠牲を捧げ得た人々は、その一部を食し、一部は貧者や知友に分かつ。君府の人々は、今も、犠牲の羊を食するときは、羊肉の細片の炒め物たるカヴルマの形で食することが多い。
ただ「食べたい」だけじゃない、食は宗教的祭礼とも深い結びつきを持つ。貧しい人に食を分ける行為は、本書の「巻ノ六 貧者の給食」で歴史的背景とともに詳しく述べられている。給食といえば献立が気になる。こちらでも資料と当時の会計簿をもとに詳細なお品書きが読める。美食の帝都の給食、おいしくないわけがないのだ。
公定価格表は本書でたびたび登場する。「巻ノ四 イスタンブルの市場めぐり」では公定価格表をもとに当時の市場を案内してくれる。小麦、米、肉、魚、魚卵、乳製品、野菜、果物、スパイス、砂糖、塩、酢……すベてある。
「食い物の恨み」に歴史あり
本書は「食」にとどまらず「食べる人」にも光をあてる。なかでも強烈な印象を残すのは“イェニチェリ”と呼ばれる軍団だ。君主直属にしてオスマン帝国の最精鋭部隊。まず、彼らは庶民にとって高級品だった羊肉を特価で買うことができた。
大好物の羊肉を安値で与えることで、イェニチェリの歓心を買い、帝都の騒擾(そうじょう)の種の一つを未然に防いだ(略)
イェニチェリは、異教徒の奴隷を改宗させ鍛え上げた軍団だ。そんな強すぎる戦士が1万から2万人もいるので、国が負担してでも大好物でお腹いっぱいにしておこうという作戦だ。たしかにお腹が空くと気が荒くなる。
羊肉をモリモリ食べたであろうイェニチェリの食のエピソードはまだある。俸給を支払われる日にスープとピラフが振舞われるのだが、それはただの接待ではなく、政情にかかわる重要なイベントだったのだ。
イェニチェリたちは、不満を抱くと、宮殿で俸給支払日に振舞われるスープを、「こんなものが飲めるか」とて、拒否するのであった。
「ごはんを拒む」というのは古今東西わかりやすく強烈なインパクトを持つ。「穏便に飲んでくれー!」と念じたであろう当時の政府高官や大宰相の心中を思うと胸がヒリヒリしてくる。
しかもこのエピソードはまだ序の口なのだ。イェニチェリの不満がピークに達すると、イェニチェリは、自分たちがスープを作るために大切にしている大鍋(カザン)すら自らひっくり返す。それは反乱の印だ。食い物の恨みと、大鍋と、国が結びついているなんて。とてもシリアスな話で笑いごとではないのだが笑ってしまう。
年間1万1500個のレモン
なにもかもがダイナミックな「巻ノ七 トプカプ宮殿の台所」は、それまでのページでイスタンブルの豊かな食材と料理をたっぷり味わったあとなので余計楽しい。1500坪もあったというトプカプ宮殿の台所を飛び回るように読んだ。この章でも支出簿が活躍する。895年はレモンだけで1万1500個のレモンが調達されたのだという。いつか実際にトプカプ宮殿を訪れたときにレモンの香りを思い出すはずだ。もはやイスタンブルそのものが美味しそうに思えてくる。
著者の鈴木董先生は若いころトルコへ留学されていたのだという。本書の端々からそのとき出合った古典的トルコ料理のおいしさと食文化への敬愛を感じる。たとえば“羊頭の丸焼き”についての説明でもさりげなく食文化とは何であるかを教えてくれる。
もの慣れぬ邦人はぎょっとするが、われわれが大目玉をギョロリとさせた鯛の兜煮や潮汁(うしおじる)を何と旨そうなと思うのと同じく、君府の大方の人々は、これを誠に旨そうなと思うのである。(略)文化を異にすれば食材もまた異なるは世界の通例
そう、だから違う国に行くのはとても面白い。たとえその時は口に合わなくても、知ることは幸福で楽しく、やがて恋しくなる。たんに「おいしいもの」を知るよりも、名所や歴史だけを知るよりも、うんと旅行に行きたくなる本だ。
そして当然とてもお腹がすく。「これは……!」と思ったトルコ料理を見つけるたびに付箋を貼った。“茄子の冷製”、“羊の胃袋のスープ”、“水パイ”のページを何かと読み返している。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。