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2020.11.06

インタビュー

【著者インタビュー】傷ついた魂の再生を描く圧倒的感動作『pray human』、執筆の舞台裏

「群像」出身の作家・崔実(チェ・シル)さんの新作『pray human』が刊行され、話題になっている。2016年、群像新人文学賞を受賞した『ジニのパズル』でデビューした崔実さんは、同作が芥川賞候補になり、織田作之助賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞して一躍、大型新人として注目された。本作はそれ以来、4年ぶり待望の第2作。刊行に至るまでの長い道のりを伴走した担当編集者と、執筆の舞台裏を語り合った。

原案はデビュー作でカットされたシーン

見田 『pray human』を読んだ読者から「こんなに熱い小説を読んだことがない!」という声が上がっていますが、書くのにものすごくエネルギーが必要な作品だったと思います。本作は、17歳のとき精神病棟に入院した「わたし」が、その10年後に当時を振り返り、病棟で同室だった「君」に手紙を書く場面から始まります。これは崔実さんご自身の経験がフィクションとして生かされているんですね。

崔実 はい。精神病棟のシーンは、もともとデビュー作『ジニのパズル』の発表前の原稿にあって、当時「群像」編集長だった故・佐藤とし子さんと相談してカットした部分なんです。とし子さんに、「もったいないよね」と言われたのを覚えています。これはもっときちんと書くべきテーマだからと。だから第2作でこの小説を書くことは、とし子さんとの約束でした。4年かかったけれど、その約束をようやく果たせました。

北村 2016年にデビューされて、『pray human』の第1稿をいただいたのは翌年の6月ごろでしたよね。

崔実 そうですね。でも、そのあと難病で入院することになって、治療に約1年かかりました。膠原病の一種で、成人スティル病という難病でした。いきなり重症になり、一時は起き上がることもできなくなってしまって。退院後は外来で治療していたんですが、それまで書いていた病院のシーンの続きを書くのが辛かった。そのころ(北村)文乃さんと打ち合わせして、新たに、主人公が精神病棟に入院するまでの話を書き始めたんです。

北村 第1稿は病院の中だけの話でしたが、入院するまでの経緯を入れたほうがいいんじゃないかという話をしました。

崔実 それで第2稿を書き始めたんですが、まだ薬の副作用もあるし、精神状態もかなりきつくて。家にいても、家族とも話ができなくなってしまった。そのときに暗い部屋で、「君」に向けて書き始めたんです。とりあえず今はそこから始めるしかないと思って。

見田 実際には誰ともしゃべれない状態だったから、文章の中で君に語りかける形で始めたんですね。

「もう書けない!」とメールを送ったら……

『pray human』著者、崔実(ちぇ・しる)さん

『pray human』著者、崔実(ちぇ・しる)さん

北村 そのあと沖縄へ行かれたんですよね。

崔実 冬の時期は一番鬱病がひどかったので、沖縄に3ヵ月ほど滞在して、そこでようやく書くことができました。でもやっぱり「もう嫌だ」と思う瞬間がまた来てしまった。書くことがただただ苦痛で。それで文乃さんに、「もう書けないです」と弱音を吐いたんです。
そうしたら返ってきたメールに、「よし、わかった。じゃあドラゴン(竜)の話、書こっか!」って(笑)。

北村 崔実さん、ドラゴン好きだから(笑)。1回書くのをやめて、ちょっと違う楽しいものを書かない? と。

崔実 沖縄でそのメールを見てびっくりして、「ああそうか、私にはこの一言が必要なだけだったんだな」と気づいたんです。自分が逃げようとしていたところで、すごい急カーブが来て(笑)、それがエネルギーになった。そのときに目が覚めました。まだいける! って。それで原稿を書いて文乃さんに送ったら、「あれ⁉ ドラゴンじゃない!」って返ってきた(笑)。

北村 忘れていましたよ(笑)。

崔実 私はあのときどこに立っていたかも、メールを見て驚いた瞬間も、すごく鮮やかに覚えています。それから沖縄で書き進めて、そのあとはタイへ移動して。タイの人々の笑顔が素晴らしくて、そこでもすごくエネルギーをもらった。書くためのエネルギーを、いろんな人からもらいました。

読者の心を震わせる感動のラストシーン

見田 本作でも、人との出会いが「わたし」を前に進める力になりますね。かつて精神病棟の患者同士だった安城さんから電話がかかってきて、久しぶりに再会することで、物語が動き始めます。

北村 第1稿では、「わたし」が入院する理由が書かれていませんでしたが、最終稿では退院後10年経った現在の視点になることで、「わたし」自身を客観的に見つめることが出来るようになったんだと思います。内にこもっていた圧力が、外に解放されたことで、物語が進んだということもあるかもしれません。

見田 安城さんとの対話の中で、「わたし」がずっと沈黙してきた過去の傷をはじめて語ります。「沈黙」というのが大きなキーワードになっていますね。

崔実 人は誰でも、沈黙していることがあると思うんです。今回の作品には「わたし」が少女時代に受ける性虐待のシーンがあって、これはいまだに家族や友達にも話せていないんですが、私の実体験です。同じような経験をした人はきっと世界中にいるけど、声を上げられる人は少数で、沈黙している人のほうがはるかに多い。誰にも言えずに沈黙し続けている人たちの痛みとか、その後の生き方とか、そういうものの難しさを描けたらいいなと思って書きました。

見田 「群像」10月号の本書をめぐる対談で、いとうせいこうさんが「よくここまでたどり着いたね」と言われましたが、あのラストが素晴らしいですよね。主人公は辛い過去と闘ってきたけれど、最後に大きな光に包まれる。タイトルに入っている「祈り」を感じる場面でした。

崔実 最後の章では、「わたし」と「君」が初めて病院の外を散歩したシーンを書きました。いろんなことがあったけど、この年齢まで生きてきて良かったと思える瞬間って、大切な人との出会いとか思い出だったりする。そんなポジティブな場面で終わりたいと思ったんです。

見田 『pray human』は読む側に突き刺さるものがたくさんある小説ですが、主人公が葛藤の果てに行き着く希望に救われて、励まされる読者も多いと思います。ぜひいろんな方に読んでいただきたいですね。

校了日にタイトルを変更した理由

『pray human』著者と二人の担当編集者

『pray human』著者・崔実さんと担当編集者。単行本担当:見田(左)、掲載誌「群像」担当:北村(右)

見田 この『pray human』というタイトルは、実はずっと『play human』で進行していたんですよね。それを掲載誌の「群像」の校了日に変えたと聞きました。

北村 本当に、最後の最後でした。表紙と目次ができて、これで校了ですと見せたら「あ!」って崔実さんが(笑)。

崔実 そうなんです。校了までの1ヵ月はずっとホテルに缶詰めで書いていて、タイトルまで考える余裕がなくて。でも、作品が終わりに近づくにつれて「これはpray にしなければいけない」と気づいたんです。

見田 でも、このタイトルになって一層、奥行きが出たと思います。崔実さんご自身の「祈り」も込められている気がして。

北村 タイトル自体は、確か20歳くらいからずっと考えていたものなんですよね?

崔実 映画の専門学校に通っていた頃、「play human」というタイトルで企画書を書いたんです。人間のふりをしている人たち、本当の自分ではなく、相手が受け入れてくれる人間になりすまして、なんとか社会に順応している人たちの話でした。今回の作品は当初、精神病棟の中の話だったのですが、そこから外の世界に広がって、最終的には主人公をはじめ、登場人物の誰もが人間を演じているのではなく、自分自身でしっかり生きている。みんな誰かのために、自分のために、何かを祈っていている人たちだから、pray にすべきだと思ったんです。

わき上がる感情に言葉を当てはめていく作業

崔実 前作『ジニのパズル』のときは、とにかく主人公の少女ジニの背中を追いながら書いている感じでした。でも今回の『pray human』は、エピソードが自分に近いこともあって、言葉にならない自分の子どもの頃の感情が、うわーっとわき上がってきて。その感情に何か言葉を当てはめなければいけない状態でした。だから、前作とはまったく書き方が違っていたんです。自分のこの気持ちを表す言葉が絶対にあるはずだと思って、辞書を引いて言葉を探す作業をしていました。

見田 自分も知らない、未知の言葉を探しながら書いていく感じだったんですね。それが本作の、ゴツゴツした感じというか、スムーズには流れていかない、独特の文体になった。一方で、一気に感情がほとばしる場面もあるじゃないですか。「わたし」の少女時代、中学生のころの親友だった由香と過ごした様々なシーンは、すごく鮮烈で、魅力的です。

崔実 もしそうだとしたら、そのシーンを書くときは楽しかったのかもしれません。

見田 その楽しさが、なんというか、読んでいて力づけられる思い出になっている。由香とは悲しい別れをするのですが、2人で過ごした時間自体はすごく美しい。そういう特別な時間があったこと自体が、「わたし」にとって大事なことだし、読者にとっても大事だと感じます。読者からの感想にも、「宝石箱をひっくり返したみたいなキラキラしたものを感じる」と。そういう美しい瞬間をとらえるのが崔実さんの大きな才能だし、つらい過去にも臆さず向き合っていく強さと美しさがつまった小説です。

崔実 由香とのシーンでは、文乃さんにすごく感謝しているんです。由香が小説を書いている「わたし」の夢に出てきて、編集長さながらに赤ペンを入れて添削するシーン。あれは、私の中では亡くなった佐藤とし子さんとの思い出というか、とし子さんが亡くなったあとに自分が経験したことでした。文乃さんにはそれを伝えていなかったのですが、何度か書き直しているうちに、あのシーンを消そうとしたときメールが来て、「ここは大事なところなんじゃないですか?」と。

北村 ありましたね。

崔実 文乃さんから一言だけメールが来たとき、「気づいてくれてありがとうございます」って思いました。

最後には必ず希望がある作品を書きたい

見田 ラストのシーンは、最初から考えていたものだったんですか。

崔実 はっきり決めていたわけではないんです。でも、「わたし」と「君」の2人が一番輝いていたときなので、そのシーンで終わりたいなという気持ちはずっとありました。あの最後の一言がチープに聞こえないように、ちゃんと読者に響くように、そこにある真実の重みが感じられるように、どうやって最後にたどり着くかということを考えて、書いていきました。

北村 決定稿に至るまでに消えたシーンがあったり、復活したり、入れ替えたりということがいくつもありました。ラストのひと言に切実な重みを持たせるためにはどのシーンが必要なのか。「これはやっぱり響くからここに持ってきましょう」とか、そういうやりとりをくり返しているうちに、だんだん厚みが出てきたところもあると思います。

崔実 実は、映画の専門学校に通っていた頃、なぜか母と文学の話になったんです。そのとき母が、太宰治の『人間失格』が大嫌いだと。

見田 どうしてですか?

崔実 なぜかというと、あの小説を読んで自殺をしてしまった人たちがいる。なぜそういうものを書いて残すのか、私にはその気持ちがわからないと。もちろん母もそれが芸術であることは理解しているんですけど。当時、結構ショッキングだったんです。母は私が文章を書くのが好きだということも知っていて、名前を彫ったボールペンを誕生日にくれたりしていたんですけど、「たとえばこの先、誰かが崔実の本を読んで、読んだ人が自殺するようなのは嫌だな」って、ボソッと。母本人は絶対覚えてないんですけど、それを言われたことはすごくよく覚えています。だから私は、希望のある終わりしか書かないというのが、密かに自分で守っていることです。この作品も、『ジニのパズル』も、すごいハッピーエンドではないし、いろんな問題は残っているけど、最後に希望は入れたいと。

見田 『pray human』も、そういう思いがあって、あのラストだったわけですね。

崔実 でも、いつかLのほうの『play human』を書いてみたいという思いもあります。

北村 じゃあ、短編で書きましょう。ぜひ、ドラゴンの話も書いてください(笑)!

崔実(ちぇ・しる) イメージ
崔実(ちぇ・しる)

1985年生まれ。日本の小学校を卒業後、朝鮮学校に進学し、その後アメリカに留学。2016年、『ジニのパズル』で第59回群像新人文学賞を受賞しデビュー。同作は第33回織田作之助賞、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。2020年、『pray human』が、第42回野間文芸新人賞候補、第33回三島由紀夫賞候補となる。

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