閉ざされた世界の見知らぬ姿
衆院選に行くと「最高裁判所国民審査」で鉛筆を持つ手が止まる。「辞めさせたい裁判官にバツをつけよ」と言われても、彼らの活躍ぶりを私は知らないし、そもそも顔も名前も知らない。すみませんねと思う。私は、彼らの何をどう判断すればいいのだろう。報道は「裁判所はこう判断した」と伝えるだけで、評価はしない。(これには理由がある。この本を読むとわかる)
『裁判官も人である』は、そんな閉ざされた世界と、その世界につつまれた彼らの「とある面」を見せてくれた。
私は裁判を傍聴したことはないし、知っていることは裁判官になるのが大変なことと、裁判員制度があることくらい。思い浮かぶのはテレビのニュースで映し出される裁判官たちの真正面を向いて表情を崩さない姿。キメ顔でもなく、かといって弱い顔でもない。
本書が捉えたのは、テレビのあの映像からは想像もつかない弱くて激しい表情だ。司法について疎い私のような人でも安心して読んでほしい。夢中で読める。そして、問題意識だけじゃなく、好奇心が湧き上がってしょうがなくなる。とても強い本だ。「どうせ、けしからんエリートなんだろうな」という下世話な気持ちで読み始めたのに、そんないじわるな期待をうんと超えた場所で胸をつかまれ揺さぶられた。
たとえば死刑判決を下すとき、裁判官はどんな気持ちなのか?
「法廷に入ると、頭を丸坊主にし、緊張で顔面蒼白となった被告人が、まず、目に飛び込んでくる。その背後の傍聴席の片隅には被害者の遺族が怒りも露に座っている。もう一方の片隅には、被告の奥さんが申し訳なさそうに身を縮めている。法廷全体がなんとも言えない重苦しい空気に包まれていて、ややもすると気持ちがなえる。しかし裁判長としてみっともない態度は取れないので、自らを鼓舞し、複雑な気持ちを抑えて死刑を宣告したものです」
ああ、やっぱりそうなのか。
じゃあ、記憶に新しい原発訴訟のことを裁判官たちはどう捉えているのか?
「良心に従って原発を停められるのは、定年退官か依願退官かは別にして裁判官を辞めると決めた時でしょう。でないと原発を停めた途端、裁判所での居場所をなくしてしまいますから」
「良心」と「裁判所での居場所」という言葉に胸が詰まりそうになる。
本書はジャーナリストの岩瀬達也氏が現職裁判官と元裁判官に対して粘り強く取材を重ねた本だ。取材期間はのべ4年。権力闘争、死刑、誤審、原発訴訟、尊属殺人の廃止、裁判員制度、裁判官の育休、裁判官のTwitter、裁判干渉、そして「一票の格差」の違憲性……100人以上の裁判官たちの証言をもとに、司法と国にまつわるあらゆる問題に光を当てている。
12章にわたるこの本の根底にあるのは「裁判官は公正かつ良心に基づいた判決を下しているのか? 真実探求の使命を果たせているのか?」という痛烈な問いかけだ。よくこんな言葉を引き出せたなあと思う話ばかりが読める。そして、その鋭い問いに裁判官たちがあらゆる立場から「自分の思い」を述べたことに、人らしさを感じる。見知らぬ顔を見た。
何が彼らを本来の使命から遠ざけるのか?
裁判官は法律と自分の良心に従う知的で孤高な存在だと思っていた。でも、本書によって官僚的な姿が浮かび上がってくる。とりわけ人事の話はあらゆる角度から語られる。ごく一部を引用する。
「裁判官になった以上、地裁の裁判長(部統括)にはなりたかった。いずれ重大な、社会的に意味のある事件を審理したいという思いはありましたから自己規制もした」
そう、彼らは出世したい。収入だって高いほうがいい。でも出世が難しくなる場合がある。たとえばこんなとき。
「(前略)かつてその裁判官が、事務総局のトップに意見を言って反感を買ったことがあった。その際、事務総局のトップは、俺の目の黒いうちは、こいつにはいい目をさせないと言ったといいます」
能力ではなく上からの印象で出世が決まることがある。サラリーマンでもこんなドロドロに露骨なことってなかなか表沙汰にならない。でも、裁判官たちはみんな知っているのだ。自分が、裁判所でどう振る舞えば、人事差別を受けてしまうかを。
だからこそ、多くの裁判官は自己規制し、上目づかいで上司の顔色をうかがう「ヒラメ裁判官」になっていくのである。
この「自己規制」こそ、あらゆる裁判を公正に進める上で障害になっていると著者は断じている。
人事差別についてはこんな悲しい証言もある。元福岡高裁の裁判長である森野俊彦氏は、とある事情により人事面で長年冷遇されてきた。私には、彼は自分の意思を曲げなかった裁判官だと思えた。なのに当時を振り返った彼の言葉はとても痛々しい。
「意に沿わない人事を受け入れてきた自分に、不当な配置転換をされた従業員などから、その撤回を求める訴えが持ち込まれた時、果たして裁く資格があるのか。そんな自問をしたことがある」
この真摯さと、もの悲しさ。ここを読んだときとても落ち込んでしまった。やりきれない。自分がここまで動揺するとは思っていなかった。終始胸がざわつく本だ。
じゃあ司法は終わっているのか?
きっと、この本を読むと闇を泳ぐ気持ちになるはずだ。でも繰り返し読むうちに私は真っ暗闇だと思えなくなった。裁判官の苦悩にどうしても期待してしまうのだ。だから心に引っかかったエピソードを読み返している。すがるようにというか、骨をしゃぶるような気持ちに近い。たとえば原発訴訟で原発を停めた井戸謙一裁判長の言葉。
「社会的影響や予想される批判を視野に入れると、重圧と葛藤に苛まれ、身動きが取れなくなってしまう」(中略)「だから、法廷の中だけに意識を集中するようにしていました」
人だから正しくないことを選んでしまうのなら、人だから間違ったことを正せる可能性だって少しはあるんじゃないか。そう祈ってしまう。
裁判官たちの証言から、「判決=彼らの姿勢」だと感じた。裁判はいつだって簡単には解決できない問題を取り扱う。この本は、そんな問題に対する彼らの姿勢が外的要因でうつろいやすいことを容赦無くあぶり出す。でも、同時に、こんな姿勢も見せる。「一票の格差」に対する元最高裁判事の泉徳治氏の証言を引用する。
「最高裁が行政の分野や立法の分野に、何でもかんでも口出ししていいわけではありません。(中略)しかし国民の基本的人権や、民主主義のシステムの根幹をなす選挙制度の改善については積極的な姿勢が必要です」
「一票の格差」は、是正がとても難しくて、でも、絶対に正しくない。そんな厄介で正しくない話に泉氏は違憲であるという姿勢を示した。泉氏以外は? 本件に対する裁判所の姿勢はどれも見応えがある。
解決が難しく、答えが簡単に見つからない問題に彼らが法廷でどんな姿勢を示すのか。私はそれをもっとたくさん見たい。なんでかって、彼らの姿勢が自分の人生にやがて結びつく恐ろしい問題だからでもあるが、同時に、そこから透けて見える裁判官たちの苦悩と葛藤そのものが、なぜかたまらなく魅惑的に思えたからだ。裁判官の人間らしさは、私たちの人生と魂に重なっている。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。