森友学園問題が「詐欺事件」に矮小化されています。この問題は国有地の不透明な払い下げが第1の問題です。と同時に忘れてはならないことは愛国心教育というものがはらむ問題点を明らかにしたことです。教育勅語を中心とした学園の教育は当初、安倍晋三首相夫妻や稲田朋美元防衛相、鴻池祥肇議員をはじめ自民党と維新の多くの政治家たち、くわえていわゆる有識者と目される人から称賛、支持されました。
それも当然だと思えるのは、当時の森友学園の教育方針は現行の教育基本法(第1次安倍政権時に成立)のいわゆる「愛国心条項(第2条の『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する』というくだり)」を突き詰めた形として実践していたといえるからです。
テレビで何度も流された教育勅語の暗誦、安倍首相への称賛、どれほどの児童が意味を理解していたのでしょうか。さらに安倍政権は教育勅語を「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定しました。
その後、森友学園が問題化されるにつれて、かつての賛同した政治家たちは前言をひるがえしたり、口を閉ざしたり、学園との関係を否定するようになりました。その振る舞いかたの変貌には天と地との差があります。
森友学園は理事長が変わりかつての学園の方針の転換の声明が出されました。その声明では、以前の教育方針が「教育基本法が平成18(2006)年に改正された際に新たに設定された『我が国と郷土を愛する態度を養う』との教育目標を、幼児教育の現場で生かそうとした」ものであったことを反省しこのように続けています。前理事長なりの努力と工夫の結果であると理解しております。
──今後は、教育基本法が昭和32(1947)年に制定された際に示された「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」との指針を常に念頭におきつつ、内容・カリキュラムを柔軟に見直して参ります。──
これは現行の教育基本法の愛国心教育を否定し、改正前の旧教育基本法へ戻るという意思を示したといえるものです。ここに浮かびあがったのは教育基本法の問題点ともいえます。
では現行の教育基本法にはどんな問題があるのでしょうか。それを知るには成立前後の議論を振り返ってみるのが役に立ちます。その時に問題とされていた教育と国との関係を正面から実に分かりやすく論点を整理し展開しているのがこの本です。書かれた時から時間がたってるとはいえ、この本で論じられた内容は今こそ振り返ってみる価値があると思います。
問題の愛国心教育について高橋さんはこう警鐘を鳴らしていました。
──忘れてならないのは、国を愛することには本質的に排他性が伴うことです。国に限らず、血族集団や、もっとプリミティブなものであっても、共同体が愛の対象になると、その共同体の各構成員を結びつける同一性の原理、アイデンティティの原理が要請されます。──
同一性の原理が働くとということは、「われわれ」というものが成立し、そこから「あいつら」「あの人たち」という差異化を生み出し(見つけ出し)、さらには同一性(共同体)から対象となったグループを排除することになります。
──共同体というものは、とりわけ国家の場合には強力に「われわれ」と「他者」とを区別しますから、そこに暴力性がないとは言えないのです。この意味で、愛国心は必然的に他者の排除を伴うわけです。そのことは、私たち一人ひとりの生存が、意識されない暴力性をもっているかもしれないというところまで広げることもできます。そして、この側面をナショナリストや国家主義者たちは意図的に強調して、他者を排除し暴力を正当化するのです。──
愛国心というものが持つパラドックスです。どのような素朴なパトリオティズム(愛郷心)であっても、そこには排除の論理がひそんでいます。愛国心を、誰もが持つ「感情的本能」と考える人もいますが、たとえ「本能」であっても排除を生むもとになりかねません。だからこそ、自分の郷土が、また国がどのような歴史を歩んできたか、その認識が重要になってくるのです。
さらに愛国心は「愛国心教育」というものになることで、さらなる矛盾を生み出していきます。
──愛国心教育を法的に正当化し、それを国家的に公教育という装置を使って行うわけですから、人々の中におのずから生まれてくる愛国心ではなくて、国が上から人々に注入し強制する愛国心になってしまう。それが「愛国心の法制化」(三宅晶子氏)といわれていることの問題点です。何を愛するかは個人の自由、最も自由な領域に属するべきことです。──
法制化された愛国心は、愛国心のよって立つ「誰もが持つ自然な感情」というものを否定していることにつながります。つまり愛国心は“涵養”しなければ生まれてこないことを明かしていることになるからです。外部から注入された「愛国心」というものです。この時、愛国心は自然感情ではなく、当為的な(そうあるべきもの)と変貌します。これは共同体の強化であると同時に、排除の感情・論理をも強めることにつながります。
このような“愛国心の涵養”として主唱され、実践されているのが「日の丸・君が代の強制」です。高橋さんはこの強制は「愛国心教育としても拙劣だ」としながらも、なぜそれがまかり通っているのかについてこう語っています。
──日本の場合、国家イコール「お上」の意思にそむかない、あるいは自分が属する組織の上意に反しないことが自分の利益にもなり、また保身になるという、いわばアイヒマン的な精神が現場を動かしているのでしょう。──
アイヒマンはナチス親衛隊中佐で第2次大戦中のユダヤ人大量虐殺の責任者のひとりです。戦後、イスラエルにより逮捕され裁判を受け死刑となりました。
森友学園(加計学園)問題はこのアイヒマン的精神を持つ政官界の人を浮かび上がらせました。“忖度”という行動にアイヒマン的精神がうかがえます。
──国家権力が個人を国民として統治していくために公教育という装置を利用する、そのことによって「国民精神」というものをつくり出して、国家のさまざまな行為、国家権力の発動に対して、これに従順で、無批判に支持していくような国民を生み出そうとすることは、教育の自由に対する「不当な支配」です。──
この本の優れたところはこういったところだけではありません。なにより教育そのものに「権力作用が不可避的に生じる」ということを手放さずに諸問題を考察したところにあります。「教える者、教えられ者」という権力関係では、なにより「お互いの関係の中で、教える者が自らの権力作用を自己反省しつつ、教育現場をつくり出していくこと」が重要になります。
その上でこの本で語られた、宗教教育、文化・伝統への姿勢、道徳教育というものにある疑問はいまだに解かれていません。また、最近でも名門私立校の歴史教科書の選び方に対して、自民党議員や右派勢力による圧力があったことが話題になりました。そのような“空気”の中、いまだからこそ、学ぶものが多い1冊だと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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