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2017.03.28

レビュー

尾木ママ「競争で学力は向上しない!」 日本だけが間違っている教育観とは?

日本の教育がおかしい。そのあらわれは大学の国際順位の下落だけではありません。日本では教育が大切にされていない、それが尾木さんのこの本の出発点です。
──実はこれほど「教育」に対して経験主義に陥り、視野の狭い国は珍しいのです。私は、日本の国民の多くに見られる、「教育」に対するまるで“麻痺してような感覚”をこのまま放っておいてはいけないと感じています。──

日本の義務教育を端的にあらわしているのが「学年主義」「履修主義」というものです。これは「子どもが授業内容を理解せず、必要な学力を身につけていなくても、6年間あるいは3年間とりあえず学校に通っていれば進級もできるし、卒業もできる」というものです。

さらにもうひとつ「一斉授業」というものがあります。これは「教師が黒板の前で問題の解き方を説明し、生徒は全員先生に注目しながら、解き方を学ぶ」というものです。一見“平等”に思えますが、それは大いなる勘違いです。
──教師から受けた一斉授業で理解できないときは、「その責任は子どもやその家族の側が取るしかない」という考え方が主流となっています。──
“平等”のはき違えか、教育理念の喪失といえると思います。

“日本型平等”は明らかに間違っています。尾木さんはフィンランドでの教育の“平等”と比較してこう記しています。
──日本独特の「平等主義」が、諸外国と決定的に違っています。たとえばフィンランドの教育で追求されている「平等主義」は、すべての子どもが“等しく理解すること”であり、“等しい指導を受けること”ではありません。日本の教育が、「指導する」ところまでしか責任を負わないのに対し、フィンランドの教育は、「指導を提供して子どもが理解する」ところまでを保証しています。そのようにして、すべて子どもに等しく学力をつけさせることが、本当の意味での「平等教育」であるという考え方です。ですから、クラスに“落ちこぼれ”をつくらないということを徹底して行うのです。こうした考え方を「修得主義」といいます。──

フィンランドなどの北欧諸国の教育の優れたところはどこにあるのでしょうか。そのひとつは“競争原理”を持ち込まないということです。
──教育に競争原理を導入しても子ども学力は向上しないし、学校の学力レベルも上がらないことは、世界ではすでに“常識”となっています。(略)競争から落ちこぼれた子どもは学ぶ意欲を失い、ますます学力を低下させることになります。──
競争原理が生むのは“格差”です。

“教育問題”はボディーブローのようにじわじわと社会にダメージを与えてきます。逆にいえば教育に“即効性”を求めるのはお門違いです。教育に即効性を求めたのが小泉純一郎・竹中平蔵の構造改革でした。
──2000年代の小泉純一郎・竹中平蔵コンビの構造改革は、「選択と集中」の掛け声のもとに新自由主義的路線をひた走り、“聖域”とされていた教育の世界に競争原理を持ち込みました。その結果、大学の研究も実学重視に偏向してきているのです。目先の成果を追い求めるあまり、長期的な視点で見れば豊かな可能性を秘めている領域がどんどん先細りになってしまっている。──

教育界の競争原理の行きつく先は「成果主義」です。これも俗耳に入りやすい言葉ですが、これがもたらすものは荒廃です。
──学力テストの結果に基づいて学校を選んだり、居住区を変えたりといった行動をとれば、学力格差がますます拡大することは明白です。しかしこの道理を理解しようとしない政治家や一部の経済人たちが「競争主義、成果主義を持ち込めば、個人のレベルも、学校のレベルも、自治体全体、国全体のレベルさえも向上するはず」と信じて疑わないでいるために、いま、日本では現在進行形で教育格差が急速に広がりつつあります。──
出発点の不平等は成果主義によって支えられ、さらに拡大していきます。こうして拡大する“教育格差”は“経済格差”と相まって一部の富裕層と大部分の貧困層という社会的不平等の原因となっています。

もともと教育に競争原理(市場原理)はそぐわないものです。それに加えて“日本の平等主義”がまかり通り、荒廃が加速れているのです。経済での新自由主義(市場原理主義)、規制緩和という「構造改革」が日本に格差を拡大させ、社会的不平等を拡大し続けていることと全く同じ事が教育でも起こっています。

この日本の教育の危機に対して尾木さんは6つの「処方箋」を提示しています。
1.国際的な「学力観」「子ども観」への転換:市場主義原理一辺倒に塗りつぶされた「教育改革」の路線から脱し、国際社会で認められている「知識基盤社会」「多文化共生社会」「リスク・格差社会」「成熟した市民社会」が求める学力論に立脚した「教育改革」への方向転換。
2.競争主義から脱却:目的や手法として「他者との競争や比較」を基軸に据えない。
3.教育の手法としての「子ども参加」──子どもを学びの主体として捉える:子ども自身が参加し、主体となって体験して、自ら思考し、想像し、工夫し、時にはつまずき、場合によっては他者と協力して解決することによって身につくアクティブな「学び」。
4.個に寄り添う教育へ──多文化共生社会に求められる教育の視点:個性をのびやかに活かす「個別教育」。
5.国の責務として、子どもの学力保証を実現する:「能力に応じた教育を受ける権利の保障」の実現を国が保証する。履修主義と競争原理を組み合わせた「学力アップ競争」を止める。
6.子どもの命と安全を大切にする学校へ。

尾木さんはこれら6つのことを踏まえ、ある教育の見直しを提言しています。それが「ゆとり教育」です。華々しく導入されながらも不評のうちに終息させられた教育です。ではゆとり教育とはなんだったのでしょうか……。
──子どもが「生きる力」をつけることができ、知識の量を増やすことよりも、子どもが自ら学び、自ら考える経験を積ませることで、思考力や問題解決能力、協調性や思いやりを備えた人間に成長させることを目的としたのが「ゆとり教育」でした。──

理念として少しも間違ってはいません。「他者と比較して競争を煽るような相対評価をやめ、絶対評価へと切り換えた」はずでした。けれどこの教育理念は旧態依然の成果主義から一方的(一面的)に「学力低下」につながったという近視眼的な判断がくだされたのです。

この「ゆとり教育」の理念が再び注目されるようにまりました。それが「2020年度の学習指導要領」にうかがえます。その指導要領でこう記されています。
──三本柱として、「何を学ぶか」「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」を掲げ、これらの柱に沿って「育成すべき資質・能力を育む観点からの学習評価の充実」が図れるような教育課程を組んでいくことを目指しています。──
「どのように学ぶか」の内実に尾木さんは希望をつないでいるのでしょう。教育は“格差”をなくすように進んでいくのでしょうか。

その一方で尾木さんは、2018年度からされる「道徳の教科化」に強い懸念を抱いています。
──学習指導要領で求めている「正直、誠実」「国や郷土を愛する態度」といった価値観を基準に子どもの心を評価することになれば、一人ひとりの個性が否定されるおそれがあるという指摘もあります。また、そうした基準で評価されていると子どもが知れば、自分の思いとは別に、高く評価されそうな発言や行動を戦略的にとることも考えられます。そうなれば、授業の子ども様子だけで、その子を正当に評価することはできなくなるでしょう。道徳の授業そのものが形骸化することになります。──

「自分の本音ではなく“他人からどう見えるか”を気にしてふるまう、いわゆる“イイ子症候群”に陥る」子どもたち、それに「履修主義」があいまっては正しい教育になるとは思えません。意味も分からず教育勅語を暗唱させていた幼稚園児の姿が思い浮かびます。

教育力は経済力以上に国力を支えるものです。ですが“成長”というような目先の目標を掲げやすい経済と比べ、教育には派手なスローガン・お題目は似合いません。また必要でもありません。だからこそ腰の据わった改革・対策が必要です。競争、市場、成果などという呪文から最も遠く、あるいはそれらの言葉では届かないところに教育というものがあると思います。心ある人に読んでいただきたい良書です。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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