ブルックナーやワーグナー、シューマン……著名な作曲家の作品を聴いていて(演奏技術ではなく)、曲自体をあまり面白いと感じられないと、「本当に皆が、この曲をいいと思っているのかなあ?」と不安になったり、「曲の面白さが理解できないのは、自分のせいかもしれない」と反省したり。
もはや教養の1ジャンルとなったクラシック界において、有名曲の評価はゆるぎなく、 “共感できない聴き手”のほうが、なぜか分が悪くなりがちです。そんな中、作曲家であり音楽評論家の重鎮、諸井誠さんが堂々と書きました。
モーツァルトだからといって、ことごとくが「名曲」というわけではないのだ。
「名曲」として称揚される限りにおいては、何よりもまず「一度聴いたら忘れられない」何かがなければいけないのではなかろうか。
権威主義がはびこるクラシック界で、かのモーツァルトに「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ痛快さで、この本、『クラシック名曲の条件』は始まります。
現代作曲家・諸井誠さんは1970年代以降、第一線で活躍した人気音楽評論家でもあります(かの吉田秀和の次世代といえます)。クラシック界の重鎮が、まさかこれほど大胆に権威主義に立ち向かうとは意外でした。
著者によれば、聴いている間は感心させられるのに、聴きおわったらたちまち忘れてしまう曲がモーツァルトには案外多い、とのこと。
1.第一楽章冒頭それと判り、
2.タイトルだけでも広く「一般的に」知られている
という2点縛りをすると、500作を越えるモーツァルト作品の中ですら、3曲くらいしか名曲とはいえないと、判定します。
ならば、真の<名曲>とはどれか。それに値する共通項はあるのか?
著者はこうして、日頃、無意識に使われがちな<名曲>という概念について考え始めます。
たとえば、
・小品よりも、やはり大曲(長ければ長い方が)が名曲になりやすいのか?
・初演で酷評された曲は、名曲にはなり得ないのか?
・変奏曲は原曲より劣るのか?
・「第九」はなぜ、世界中のひとを虜にできたのか?
・著作権意識も薄かった当時につくられた、「ソックリさん」作品は、名曲には値しないのか。等々……。
俎上にあげるのは、ベートーベン、Rシュトラウス、チャイコフスキー、ショパン、シューベルト、マーラーと、いずれも大作曲家ばかり。そこに著者は、自身の思考や考察だけではなく、ベートーベン評論家として名高いフランスの文豪、ロマン・ロランの批評文や、ドビュッシー、フルトヴェングラーなど、著名作曲家や指揮者たちからの曲評など、錚々(そうそう)たる証拠物件を揃えていきます。
なかでも私が注目したのは、チャイコフスキーが37歳の貧しかった頃、45歳のパトロンである富豪のメック夫人に宛てた手紙でした。
ある友人に4000通もの手紙を送ったと証言が残っているほどの手紙魔のチャイコフスキー(メールやSNS全盛の今、彼が生きていたら、どんなことになったでしょうか)。
チャイコフスキーは「ピアノ協奏曲 第一番」を――それこそ、CMやドラマまで、聴いたことのないひとは居ないのではないかと言うほどの、有名曲です――師匠、ニコライ・ルビンシテインの前で、初めて試演した日のことを、メック夫人に詳細に知らせています。
――「私は第一楽章をひきました。一言もなく、一つの注意もない! 自分の作った料理を友達にすすめたのに、それをたべて、しかもだまっていられる時の人の立場が、どんなにばかげた、たえがたいものであるか、あなたはおわかりでしょうか!」
じっと耐えて弾き終えた彼に、ルビンシテインは容赦のない批判を浴びせます。
「そのまま残せるのは、二、三ページで、あとは破棄するか、まったく書き換えるしかない」とまで言い切ったという。(中略)「私にはもうだれのレッスンも必要ではありません」と考えているチャイコフスキーに、これは耐えがたい屈辱を与えたであろう。
そしてチャイコフスキーはメック夫人への手紙の中で、こう宣言するのです。
――「《私は一つの譜も書き換えません。これを今あるまま、そっくりそのままで印刷します。》」
大変な怒りよう、こちらまで悔しさが伝わります(天才にもこんな苦労があったのですね)。
おそらく1音変えただけでも、あの象徴的でドラマチックな世界は崩壊し、別物になったことでしょう。よくぞチャイコフスキーは屈せず、日和らず、あの曲を世に出してくれた、と感謝するばかりです。
師匠の批判はどこにあったのか、そして、大酷評された曲がいかに復活できたのか、顛末の詳細は本文に譲りますが、こうした細かいエピソードがふんだんに盛り込まれているのも、本書の大きな魅力の1つになっています。
時に、天才作曲家たちが作品に仕込んだ様々な技法を解き明かし、彼らの苦労や仕事ぶりを作品誕生秘話に盛り込んで。<名曲>批評が、親近感あふれるヒューマンストーリーに変わっていく――逸話採集の厚みは、まさに諸井の音楽愛のなせる技といえましょう。
それにしても、なぜ著者が、ここまで手間暇かけた<名曲>探検を試みたのか。
解説を書き下ろした岡田暁生さんが本文を咀嚼し、著者の気持ちをこんなふうに代弁しています。
名曲とは、「個性と技法の探求vs.公衆の支持」の間のぎりぎりのバランスに成功したものだったのだ。では一体どうして十九世紀にはそれが可能だったのに、二〇世紀に入って――「傑作」は数多あれど――「名曲」が生まれなくなってしまったのか? 「名曲」を十九世紀において可能にしていた存立基盤自体が崩れてしまったのだろうか? 一体名曲を生み出した条件とは何だったんだろう? ――本書の背後には、前衛作曲家としての諸井のこんな切実な問いが隠れている。
モーツァルトの時代から、現代まで。作曲家はみんな、いつか自分が<名曲>をつくりたいと渇望している。そして聴き手も、後世にのこる<名曲>誕生の時代に立ち会えたらと、願っている。
この本は、クラシックを愛してやまない人間達の、愛にあふれた1冊だと感じます。まさに解説の最後の1行に至るまで。
レビュアー
ライター。学生時代は吹奏楽部→オーケストラでホルンを演奏していました。好きな作曲家はブラームス。現在は、宝塚歌劇とジャワガムランを溺愛中。