いつか終わること
その晩の会食はとあるスペインバルで、有名な女性作家さんも好きで来るお店だというので、ミーハー心をときめかせて内心わくわくしていた。
スペインの生ビールは蜂蜜に似た後味でほのかに甘く、パエリヤやミートボールはシンプルだけどぎゅっと味が詰まっていた。
古本や天使の塑像や有名な絵のレプリカが所狭しと飾られた店内は独特の統一感があって、人によってはもっと整然とした内装を好むかもしれないが、私自身はこういう一見無秩序に見えて調和したお店が昔から落ち着いた、とふいに気付く。
乱雑になりそうでならないのは、お店をつくった人のこだわりという点ですべてが一貫しているからである。それはまるでたった一人の書き手を通した世界、一冊の小説の中にひと時だけ入るようだな、となんだか思った。
食事をしながら、新しい小説の打ち合わせをして、今はあまり家族をテーマにして書く気分じゃないという話をして、久々に恋愛ものの長編もいいですね大人向けのやつ、と言っていたら、軽く気分が高揚した。
来月にはキリスト教と女性をテーマにした新刊が出るという話もしていたら、帰るときにお店の方が店内に飾られたマリア像やイエス・キリストの絵画についての話を始めた。
「イエス・キリストは、生まれを考えれば、あんなに肌の色は白くないはずなんですよね。だけどヨーロッパの人はそれじゃあ、困るんだよね」
と語られたときに、今までそのことについて考えたこともなかった自分に驚いた。人は、実際に自分が見ているものを正しいと思いすぎる。そして見たいものと真実だったら、真実のほうが見たいもののほうへ歩み寄ってくれないかしら、と本気で期待し、時に現実的な力を本気でそこに加え、歴史は幾重にもなっていく。
四年前の夏、まだ『群像』で小説連載をしている最中に、私がTwitter上で「純文学を卒業します」という発言をしたことで、連載が完結してもなかなか手直しと刊行に踏み切れなかった。
時が経ち、仕事の方向性も定まったタイミングで
「単行本にしませんか?」
と担当さんから声をかけてもらった。
そこで私が内心ずっと気になっていた箇所を打ち明けると
「そこはむしろ直さなくてもいいので、直すとしたらこっちだと思います」 そう指摘されて、ためしに読み返してみたら本当にそのとおりだった。 その的確さが心地良く、そういえば文芸誌で連載しているときもこんな感じだったな、と一種、独特の緊張感と厳しさを肌が思い出して少し懐かしく感じたりもした。
そして完成した『夜 は お し ま い』は性に傷つけられ、肉親に怒りと絶望を抱いて、現実を見ないふりをしながら恋愛に溺れ、カソリックの司祭である金井神父との対話に抵抗しながらも、自分なりに生きようとする女性たちの物語である。
執筆中は、神様のこと、女性としての肉体を持つこと、癒えることのない怒りを抱いたまま生きることの終わりのなさについて考えていた。祈るとはどういうことなのかとも。
昨年、直木賞を頂いた『ファーストラヴ』と同時期に近しいテーマで執筆したため、まったく同じ会話が登場したところもあった。
本来は直すものではあるけれど、ジャンルが異なることによって生まれた重複には残しておく意味があると思い、削らなかった。興味がある方はぜひ読み比べてもらえたら嬉しい。
それぞれに答えが出て、終わりが見えたことで、深刻な性の問題についてはいったんおしまいでもいいかもしれないと考えている。
書きたかったのは、傷ついたことそのものではなく、傷ついた人ほど平気なように振舞おうとして周囲に誤解され続けること。だからそのことが正しく受け入れられていつか終わりますようにと。
そういうことだったのだと書き終えて実感している。
島本理生(しまもと・りお 作家)
(出典:読書人の雑誌「本」11月号)