14歳のビル・ゲイツ、革命の導火線となる「ある教訓」を学ぶ
「コンピュータとインターネットを作ったのはだれか」と聞かれたら、答えに窮するかもしれない。それもそのはず。これらを作った人物はけっして1人ではないからだ。見落とされがちだが、デジタル時代の発明はほとんどがコラボレーションの中から生まれてきた。 ウォルター・アイザックソンの最新作『イノベーターズ』では、普段は注視されない独創的な人間や少数ながらの真の天才まで、個性溢れるヒューマンストーリーを数多く描いている。今回は、同書よりマイクロソフト創業者、ビル・ゲイツの学生時代を紹介しよう。彼が「ある重要な教訓」を手にして成功をつかんでいく物語を通して、「チームワークこそ、時代を揺るがすイノベーションの根幹」であることを実感していただきたい。
伝説のオタク少年
「彼は、そういう呼び名が生まれる前からオタクでした」と当時の教師は語る。
並外れた知性。大きすぎる眼鏡。やせっぽちの身体。甲高い声。シャツのボタンをひとつも外さずに着るようなガリ勉ファッション。小さい頃のゲイツはまさに、我々が思い描くオタク像そのものであった。
だが、ゲイツはただのオタクではなかった。熱心で驚くほど頭が切れ、それでいてユーモアのセンスもあり、冒険を好んでいた。テニスや水上スキーに本気で挑み、父親の影響で熱心なボーイスカウトにもなっていた。
また、ゲイツは少年期からひたむきに勉強していた。4年生のとき、理科の宿題で5ページのレポートを求められたのに対し、30ページも書いて提出した。同じ年、将来なりたい職業の調査では「科学者」と回答した。
また、シアトルのスペースニードルタワー最上階で開かれるディナーに招待されたこともあった。以前、協会の牧師が開いたコンテストで「山上の垂訓」を完璧に暗唱したからだ。
相棒との邂逅
ゲイツの人生が一変したのは中学生になって数ヵ月後。彼が通う私立の名門男子校、レイクサイドスクールの一室にコンピュータターミナルが設置されたのがきっかけだ。
彼は毎日ひまさえあれば、熱心な仲間と一緒にコンピュータ室に通うようになった。のちにゲイツはコンピュータの好きなところを尋ねられたとき、「厳密な論理のシンプルな美しさ」と答えている。それこそ、ゲイツが独自に考えながら培っていったものだ。
そして仲間の中には、将来マイクロソフトの共同創業者となるポール・アレンも含まれていた。アレンはゲイツより2学年上で、体つきもずっと大人だった。背が高く社交的で、いわゆるガリ勉タイプではない。そんな彼がすぐゲイツに興味を持ち、引きつけられた。
ふたりの仲を表す印象的なエピソードを紹介しよう。
ゲイツがビジネス誌「フォーチュン」を読みふけっていたある日のこと。「こういう大会社を経営するというのはどんな感じなんだろう」とゲイツに聞かれ、アレンは「想像もつかない」と答えた。しかし、ゲイツは「いつか僕たちも会社を持つことになるかもしれないよ」と涼しい顔で言ったという。
ゲイツは16歳のとき、「30歳までに100万ドルを稼ぐんだ」と豪語していた。だが、この自己評価は見事に外れてしまう。アレンとコラボレーションした結果、30歳時点のゲイツの資産は3億5000万ドルに達していたのだ。
コンピュータ革命をもたらす教訓
1968年秋、8年生になろうとするゲイツは学友と「レイクサイド・プログラマーズ・グループ」を結成。この事業を通して、ふたりの役割はだんだんと固定化されていた。アレンがアイデアマンで、0から1を考え出す役。ゲイツはその中から一番いいアイデアに狙いを定め、実現を図る役だった。
ある日のこと。ゲイツはある調査会社から交通パターン分析の仕事を受注した。道路にゴム管を渡し、その上を通過する車を数えている会社の仕事だ。ゲイツとアレンは、その生データを処理する専用のコンピュータを作るのがいいと考えた。
近くの電機店で360ドルもする8008チップ(インテルが開発した初期のマイクロプロセッサー)を購入したふたりは、8008上で動くプログラムを書く必要があった。そのためアレンは、8008の仕組みを模倣し、メインフレーム上でも動作可能にする、つまりエミュレートする方法を考え出した。
「8008のエミュレーションは技術界では自明のことを再現した形で、1930年代にアラン・チューリングが唱えた理論にも通じる。彼が唱えたのは、いかなるコンピュータも、他のコンピュータと同様に動作するようプログラムできるということだ」と、アレンはのちに説明している。
錬金術のようなこの技からは、「ソフトウェアがハードウェアをしのぐ」という教訓も学べた。これこそ、ゲイツとアレンがコンピュータ革命にもたらした核心だと、アレンはのちに語っている。
ハーバード時代のゲイツ
ハーバード、エール、プリンストンの3校すべてに合格したゲイツが選んだのはハーバードだった。
ゲイツはハーバードでも、30年間解決されなかった数学の「パンケーキ問題」を解決したり、登録した講義には出ずに他の講義を聴講していたにもかかわらず試験はすべて「A」を取っていたりと、その才能を遺憾なく発揮していた。
また、ゲイツはポーカーにものめり込み、一晩の勝ち負けが1000ドルに達することもあった。これ以上浪費しないようにと、アレンに小切手を預けるほどには熱中していた。「すぐに返してくれ」と何度も迫っていたそうだが。
ゲイツがハーバードで過ごす気ままな生活は、1974年の12月、2年生のなかばに一変する。アルテア(MITS社が開発したパーソナルコンピュータ)が表紙を飾った「ポピュラー・エレクトロニクス」誌の最新号をつかんで、アレンが学生寮カリアーハウスのゲイツの部屋に飛び込んできたからだ。
「見ろよ、僕らのいないところで、こんなのが始まっているぞ」
アレンのこの一言が、ゲイツに行動を起こさせることになる。それから8週間、ふたりは夢中になってコードを書き続けた。やがてコンピュータビジネスの性格を変えていくことになるコードだ。
歴史を変えたイノベーターズ
ゲイツとアレンは、アルテア用のソフトウェアを書きはじめた。完成すれば商用としてははじめて、マイクロプロセッサーにネイティブで対応する高級プログラミング言語になる。
そして、パーソナルコンピュータのソフトウェア市場が生まれることにもなる。
手元にアルテアがないため、アレンはハーバードのPDP-10を使ってエミュレートした。その間ゲイツは猛烈な勢いで、黄色いリーガルパッドにBASICのインタープリターのコードを書きつづけていた。
数学マニアのハーバード生、モンテ・ダビドフの力も借りながら、昼夜を問わずハーバードのエイケン研究所にこもり、国防総省の予算で動くPDP-10を用いて歴史を作り上げていった。
1975年2月の終わり。8週間の必死なコーディングの末に、プログラミングは見事3.2キロバイトに収まった。アルテアの拡張版が持つ4キロバイトよりも小さく、ユーザー用のメモリーを残すことに成功したのだ。
「私がこれまで書いてきたなかでも、いちばんクールなプログラミングになりましたよ」とゲイツは語った。
ゲイツは最後にもう一度、エラーがないか確認したうえで、エイケン研究室のPDP-10からプログラムの穴あきテープを出力。これをアレンが、MITS本社があるアルバカーキまで持っていった。
動作テストがはじまる。BASICインタープリターのコードを読み込むのに10分近くかかった。MITS社員が今回も失敗だろうとタカをくくっていたその瞬間、新たな歴史が生まれたのである。
史上はじめて、ソフトウェアがホームコンピュータ上で動いた。
アレンは見事、BASICインタープリターをアルテア本体に搭載するライセンスを交わすことに成功した。「笑いがこぼれるのを抑えられませんでしたよ」とアレンは率直に語っている。
アレンは持ち帰ったアルテアをゲイツの部屋に設置し、ゲイツとともに近所の店へ祝杯をあげにいった。ゲイツの注文はいつもと同じシャーリーテンプル。マラスキーノチェリーのジュースとジンジャーエールのノンアルコールカクテルだ。
我が道を進んだゲイツ
ゲイツは大学の授業より、アレンと進めているソフトウェア事業のほうに重きを置くようになった。そして1975年の春に2年生を終えると、アルバカーキに飛んでマイクロソフトを創設。秋から始まる3年の新学期には戻らないことにした。
翌1976年、春と秋の2学期はハーバードに戻ったが、それを最後に中退してしまう。卒業まで残り2学期だった。
ビジネスの世界へ本格的に足を踏み入れたゲイツは、世の中にはいろいろな才能があり、それぞれの得意分野で補い合うことを強く実感する人生を歩む。学生時代よりも強くチームワークを意識したゲイツは、その後さまざまな偉業を達成した。
2007年6月、ハーバードで名誉学位を授与されたゲイツは、そのときの講演を父親に対する呼びかけで始めている。
「30年以上かかってしまいましたが、ようやくこう言えます。父さん、いつか必ず学位をとりに戻りますっていつも言っていたけど、そのとおりになったでしょう?」
1952年生まれ。ハーバード大学で歴史と文学の学位を取得後、オックスフォード大学に進んで哲学、政治学、経済学の修士号を取得。英国『サンデー・タイムズ』紙、米国『TIME』誌編集長を経て、2001年にCNNのCEOに就任。ジャーナリストであるとともに伝記作家でもある。2003年よりアスペン研究所特別研究員。著書に世界的ベストセラー『スティーブ・ジョブズ』1・2、『イノベーターズ』1・2、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』上下、『ベンジャミン・フランクリン伝』『アインシュタイン伝』『キッシンジャー伝』などがある。