人生の大半の時間を占める「仕事」。その仕事に行き詰まりを感じたり、また、会社の人間関係に悩んでいる人や、自分の将来に漠然と不安を感じている人は多いのではないでしょうか。それらに心当たりのある人はぜひ読んでください。読み進むにつれて、必ずや自分の悩み、ぶつかっている壁、あるいは疎外感が少しずつ溶け出して、自分の視界が広がっていくのを感じられると思います。
「人は仕事で磨かれる」
仕事は生活の手段というだけではありません。仕事から私たちは、人間として多くの体験をします。仕事は私たちに希望、絶望、悲哀、喜びそして怒りとさまざまな感情をもたらせます。この仕事の世界にどのように向き合えばいいのか……これが著者がこの本に込めた思いの出発点にあるものです。
これから日本の中心となる若い人に、いま私がいちばん知ってほしいのは、仕事を通して得られる人生の喜怒哀楽、とりわけさまざまな喜びです。
「あらゆる感情が経験できる」仕事というものは、著者にいわせれば「人生そのもの」です。「喜び」ばかりがあるわけではありません。おそらく失敗、つまずきのほうが多いかもしれません。でもそのことにつまずき、歩みをあきらめてはいけない、これがこの本に込めた著者のメッセージです。
伊藤忠会長、中国大使を歴任した著者も順風満帆だったわけではありません。大きな失敗に直面したり、職場での孤立を味わったこともあったそうです。そのような「つらさ」に対して著者はどう振る舞ったのか……。それらの出来事についてユーモアを交えて語りながらも、読む者に著者の感じた、くやしさ、負けん気、自分の信念に従う意志の強さが文章の中から浮かびあがってきます。それらの機微に触れたこの本の言葉たちは、仕事の「つらさ」が本当はどこにあるのかを考えさせてくれます。
もちろん仕事から得た大きな「喜び」もありました。仕事は「ワクワク・ドキドキ・心のきらめき」をもたらすものでもあります。そこから著者の信条が生まれました。「人は仕事で磨かれる」と。そのためには倦(う)まずたゆまず「努力」することが大事だと。
なぜ働くのか
著者が自ら「ズケズケ」いう質(たち)と称していますが、こういった姿勢は、正規・非正規雇用という微妙な問題について語ったところによくあらわれています。
「私自身は、非正規社員を全廃して、安心して働いてもらう仕組みを企業側がつくるべきだと思っています」と語りながらもこう断言してはばかりません。
正規雇用になって何が安泰なのか。(略)人並みか、それよりちょっとマシな職に就いて生活できるというだけじゃないか。そんなものが人間にとって目標になるのか、と思います。(略)
人間の幸せとはそんなものではありません。「お金も社会的地位もない非正規雇用の人たちは不幸」というのは一面的な捉え方です。どういう雇用形態がいいかは、人それぞれなのです。
これは正規云々ということにあぐらをかいている怠惰さ、横着さへの苦言でしょう。彼らはなにかを見失っているのかもしれません。
私は社長をやり、会長もやりましたが、それによって自分の人生の頂点で幸せになった感覚はまったくありませんでした。社長や会長になったって、辞めればただのオジサンです。会社を辞めて爺さんになって、その辺を弱々しく歩くようになったら、ヒラも会長も一緒じゃないですか。
お金、名誉、権力を「一時的な欲望」と見ている著者は、人間の働く理由を「人間としての成長」にあると考えています。
働くことを通して、人はさまざまな経験を積み、人間への理解をよりいっそう深めていける。それが人としての成長です。
さまざまな経験と「喜び、悲しみ、怒り、やっかみ、ひがみなどのさまざまな思い」を経て、人は成長していきます。そのために「仕事」というものがある。
嘘をついたり、騙したり、人の心を傷つけたりすることなく、心の底からこうした喜びや幸せを味わった人は、死の床についたときに、「ああ、俺の人生はよかった」と、深い満足感に包まれるのではないでしょうか。
そういう人生にしたい。そういう人に私はなりたいのです。
至言とはこのことではないでしょうか。読む人の心に浸透する言葉だと思います。啖呵のような小気味よさと深い洞察、それを少しも難しい言葉を使わずに綴る、この本はまさしく名エッセイです。
良心を手放すな
著書が大事にしている言葉のひとつが「良心」です。「良心に忠実に生きよ。それが会社を救い、社会を救う」ではこの「良心」をめぐって綴られています。そこには著者の苦い記憶がありました。
社内の不正に気づいて行動を起こした著者はかえって不本意な「スパイ」というレッテルを貼られてしまいます。
世間ではよく、「自分の心を曲げて妥協せざるを得ないこともある。それができるのが大人というものだ」と言われます。でも、それはおかしい。
正義を貫いているにもかかわらず、昔の私のように理不尽な目に遭ってしまうことが、皆さんにもあるかもしれません。それでも、できる限り、自分の良心に忠実に生きる努力をしてほしい。それが会社を救い、ひいては社会全体を救うだろう、と思っているからです。
「告発した社員が特定されれば、その社員は必ず村八分にされる」という空気の中で思ったことでした。そんな筋を通した自分の経験を振り返りながらもこんな文章を付け加えるのを忘れません。
ただ一つ気をつけてほしいのは、あなたを支持してくれる先輩、上司に話をし、一緒に動いてもらうことが大切だということです、正義は必ず勝つとは限りません。玉砕になってはいけません。
いまの日本へ向けて
先に上げた「良心に忠実に生きよ。それが会社を救い、社会を救う。」以外でも「空気を読んでも顔色は読むな。」とか、「人は三年権力を握ればバカになる。」などでは著者の「信念」「良心」に基づいた日本社会への警鐘が鳴らされています。
「沈黙の螺旋」という言葉をご存じでしょうか。
自分の意見が少数派だと感じると、人は孤立を恐れて沈黙する。逆に自分が多数派だと知れば、いままで以上に声高になる。すると少数派は多数派に押されてますます意見が言えなくなる。その結果、多数派の意見が実態よりも支持されているように見える。(略)
いまの日本はこの状態に近いと思います。現政権が誕生してから日本の政治では、リーダーの意向か否かにかかわらず、忖度過剰なのか、多くの人が自分たちの好きなように国の方向やシステムを次々とつくり変えていこうとする動きが続いています。
人間は社会的な動物です。ですから、人間の行動・活動は今だけよければとか、自分だけがよければとかという考えであってはなりません。そんな思いが伝わってきます。
仕事と人生、というテーマで書かれた本は少なくありません。でもユーモアあふれる語り口とどこまでも真摯にそして正直に語ろうという姿勢で綴られたこの本のメッセージは多くの類書とは一線を画しています。著者の貴重な体験から多くの学びを得ることができます。堅苦しく考えることはありません。著者の自伝風エッセイとしても楽しく読めるのですから。仕事に悩む人、まずは手に取ってどこからでもいいのでページを開いてください。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。