文豪漱石を相手に丸ごと1冊かけて「持病」を切り口にその生涯を読み解いた、ユニークかつ読み応えのある1冊だ。漱石の“評伝”はもちろん、“小説”もまともに読んでいない筆者も、本書の頁を捲りながらぐいぐい引き込まれた。「病い」は生きる時代や住む世界の壁を超えて存在する万人共通の話題なのだ。
それにしても、なんと多くの医者が登場することか。読み進めていくと、出てくる出てくる。半分も読まないうちに、その数は両手を超えていた。登場する文士たちよりも、医師の数のほうが多いくらいだ。
漱石は「病気のデパート」と呼ばれるほどの病歴があった。3歳で痘瘡(とうそう)、17歳で虫垂炎、20歳でトラホーム(伝染性慢性結膜炎)、中年以降に胃潰瘍、痔……、そして生涯を通じて常に根底に抱えていたミザンスロピック病(厭世病)。病気に罹(かか)る度に各方面の医師の世話になっている。
本書では、交流のあった作家仲間よりもむしろ、生涯にわたって抱えた数々の「病い」、或(ある)いは、それらの「病い」をめぐって縁を結んだ医師たちにこそ光を当て、その生涯に迫っていこうという、ありそうでなかったアプローチが試された。
だからといって決して「病い」という切り口ありきの変わり種的な評論ではない。あくまでも「彼は如何にして文豪漱石となりしか」という直球の問いかけが前提となった本格志向の漱石評伝である。
その漱石も生まれ落ちたときから文学者であったわけではない。(中略)いったい、いつ文学で身を立てようと思ったのだろうか。
それを知る手だてとして、まずは41歳の漱石自身が自身の人生キャリアを振り返るこんな1文を紹介する。
私は何ごとに対しても積極的でないから考へて自分でも驚ろいた。文科に入つたのも友人のすゝめだし、教師になつたのも人がさう言つて呉れたからだし、(中略)小説を書いたのも皆さうだ。だから私といふ者は、一方から言へば他(ひと)が造つてくれたやうなものである。(「処女作追懐談」『文章世界』明治四十一年[一九〇八])
すでに“職業作家”として一家を成していた漱石の述懐に、驕(おご)るところはまったくない。リラックスした口調で漱石はさらに続けて、「どうかあんな風にえらくなつてやつて行きたい」と自分が憧れた2人の“変人”医師の名前を出す。駿河台の杏雲堂病院の創設者であり当代きっての肺病医と謳われた佐々木東洋と、井上眼科病院の初代院長であり日本ではじめての眼科専門医と言われる井上達也。「何か己を曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事」はなんだろうと思案した際、漱石の目に両人の名前が浮かんだという。
ここで注目すべきは変人を自認する漱石が生き方の手本や目標として佐々木東洋と井上達也という二人の名前を挙げていることである。
十五、六歳のころの漱石がその生き方に感銘を受けた先人、それは文学者でもなければ、長兄でもなかった。医者だったのだ。
「彼は如何にして文豪漱石となりしか」について問わんとする著者のこだわりを感じずにはいられない。読み進めていくと、なるほど漱石の人生の節々には必ず病いと医師の存在があって、あみだくじの横棒のように彼の歩みを決定づけているふしがある。
甘酸っぱい"初恋"も、病院通いから生まれた。
漱石が明治二十年[一八八七]にトラホーム(伝染性慢性結膜炎)に罹って通いはじめたのが先述の井上達也が創立した井上眼科である。時をおいて明治二十四年頃、同院待合室で見かけたひとりの女性に一目ぼれし、彼女と親しくなるために井上眼科へ日参していた時期があったという。一高時代の同級生である子規に宛てた手紙に、漱石は思い余ってこんな調子で綴っている。
あゝそうそう、昨日眼医者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子をみたね、――[銀]杏返しに竹なはをかけて――天気予報なしの突然の邂逅(かいこう)だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し其代り君が羨ましがつた海気屋で買った蝙蝠傘(こうもりがさ)をとられた、夫故(それゆえ)今日は炎天を冒してこれから行く
千円札の面構えからは想像も及ばない、ウブい青年漱石がいる。この手紙の前後に、同じ女性かどうかは定かでないが、ほの字になって浮かれる漱石を「自称色男ハさぞさぞ御困却と存候」とからかう正岡子規の書簡も残っている。互いに刺激し合いながら、片や近代を代表する小説家として、片や近代俳句のトップランナーとして後に活躍することになる親友同士のなんとも微笑ましいやり取りである。
ちなみに、明治二十八年[一八九五]の漱石の松山行は井上眼科で出会ったこの女性との破局による傷心赴任との説もあるという。彼女もまたあみだくじの横棒のひとつだったということか。初恋の相手しかり、そのコイバナを打ち明けた大親友・正岡子規しかり、本書で紹介される若かりし頃の漱石の出会いをめぐるエピソードがとにかく興味深い。
漱石に「文学の道」へ進むことを諭した一高の同級生・米山保三郎とのやり取りもそうしたエピソードのひとつだ。米山保三郎こそは、漱石に「文科」(現・東京大学文学部)に進むことをすすめた張本人。くだんの漱石の述懐にも登場する、「自分を造ってくれた」親友のひとりである。
明治二十一年[一八八八]、帝国大学予科を卒業した頃のこと。変人の医者ふたりを人生のロールモデルとして描きつつ、職業としては「建築家」を志望しようとした漱石に向かって、その考えを退けて「文学者」の道へ進むことを説き諭したという。
日本でどんなに腕を揮(ふる)つたつて、セント、ポールズの大寺院のやうな建築を天下後世に残すことはできないぢやないかとか何かとか言つて、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の方が生命があると言つた。(略)
自分はこれに敬服した。さう言われて見ると成程又さうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、又文学者になる事に一決した。(「処女作追懐談」)
それから140年後、いま私たちが「天下後世に残った」漱石の作品を読むことができるのも、このときの米山による「大議論」のおかげかもしれない。「同人如きは文科大学あつてより文科大学閉づるまでまたとあるまじき大怪物に御座候」と漱石が記すキーパーソンは28歳で夭折。後に34歳で逝(い)った正岡子規と同じく、結核がもとでこの世を去った。彼らもやはり「病い」と縁の深い人生だった。
多くの持病を抱えた漱石の死病となったのは胃潰瘍である。「強度の胃病が発症するのは明治四十年[一九〇七]四月に朝日新聞の社員となり、本格的に小説を書きはじめて以降」のこと。
漱石は『門』脱稿後に「胃腸病院」へ駆け込み、その後長期入院し、退院後に転地療養のつもりで出かけた伊豆の修善寺温泉で大吐血(わざわざ「修善寺の大患」と名前がつくほど文学史的には有名な出来事とされている)。そこから大正五年[一九一六]に没すまでずっと、この胃潰瘍に苦しみ続ける。
本書終盤で、著者はこの期間に漱石の診療にあたった医者たちについて、「目まぐるしい主治医の変遷である。これでは安定した経過観察はできず、治療のマイナス要因になったと思われる」と推察しながら、病床の裏舞台をつぶさに描いていく。はたして適切な治療だったのか、手術は検討されたのか。踏み込んだ推察も興味深い。漱石や家族の側からは見えにくい、病院や医師それぞれが抱える来歴や事情など、これまで漱石の生涯を描いた評伝やドラマなどでは知りえなかった一部始終が立体的に浮かび上がる見事な書きぶりだ。「文士より医師にこそ光を当てる」本評伝の真骨頂ともいえる山場は、ぜひとも本書を開いて味わってほしい。
とくに漱石を看取った最後の主治医・真鍋嘉一郎との交流が描かれるくだりが読ませる。真鍋は、漱石が松山中学での教員時代の体験をもとに書いた『坊ちゃん』に出てくる生徒のモデルとなった人物。主人公である東京の大学出の新任教員を、授業中に質問攻めで困らせようと試みる生徒だ。約10年ぶりに新橋駅で再会した2人が、「先生・生徒」と「患者・主治医」、2つの関係性の間で行きつ戻りつするエピソードがとても味わい深い。まるで『坊ちゃん』の続編を読んでいるかのような不思議な読書体験。そんなオマケまでついてくる、贅沢な“漱石本”である。
レビュアー
出版社勤務ののち、現在フリー編集者。学生時代に古書店でアルバイトして以来、本屋めぐりがやめられない。夢は本屋のおやじさん。