幕末・明治の歴史的シーンに垣間見えた「食事(メニュー)」に着目して語ったノンフィクションがこの本です。食事は文化のあらわれですから、この本は近代日本が遭遇した欧米文化の衝撃の大きさを語ったものともいえます。
ペリー来航時の幕府の饗応について『ペルリ提督日本遠征記』にこうあります。
「日本人の饗応は、非常に鄭重なものではあつたが、全体として、料理の技倆について好ましからざる印象を与へたに過ぎなかつた。琉球人は明かに、日本人よりもよい生活をしてゐた。」
これに対して著者はこう綴っています。
どうも本膳料理はペリーのお気に召さなかったようだ。「ハレの料理」として儀礼的な意味をもつ本膳料理は、味わうことよりも見た目の贅沢さが重視されている。しかも、日本料理は動物性蛋白質が少なく、淡泊な料理が多い。(略)肉料理が中心で脂肪分の多い食事に慣れているペリーは、満腹感も得られず、美味しいとも思わなかったのだろう。
ペリーは「先進文明を見せつけて威圧感を与える手段」として「料理による饗応」を考えていました。おもしろいのはペリーが日本遠征に連れてきた料理人が「パリ仕込み」だったということです。フランス料理が先進文明の代表として選ばれていました。現在でも世界3大料理の1つといわれているフランス料理ですが、すでにペリーの時代に先進国間では最高のものとして知られていたのでしょう。
このペリーに招かれた幕閣はフランス料理に舌鼓を打ち「禁じられていたはずの肉料理も喜んで食べ、初めて口にするシャンパンやリキュールの美味しさに驚いた」といいます。この衝撃は大きく、これを嚆矢(こうし)として日本で饗応の料理の見直しが始まりました。「先進文明を見せつけて威圧感を与える手段」としての料理の成果があったというべきでしょう。
日本人はフランス料理もまた欧米文化の1つとして積極的に吸収しようとしました。その意味ではこの本はフランス料理の受容・浸透というものをサイドストーリーとして描き出したものともいえるかもしれません。
ペリー来航から14年が経過した1867年(翌年は明治元年です)、江戸幕府最後の将軍・慶喜がイギリスの公使パークスと外交官アーネスト・サトウを饗応します。その際の料理もフランス料理でした。江戸幕府は親フランスだったのでこの選択はあまり不思議ではありません。というのも幕府はナポレオン三世治下のフランスから軍事顧問団を招聘し幕府軍の近代化を目指し、またフランス軍装姿の慶喜の写真が残されていたくらいですから、フランスに対する親密さ、信頼感は大きかったのでしょう。
この慶喜主宰の饗応で出されたメニューは実に盛観なもので27品に及んでいます。かつてペリーに出した本膳料理と比べるとその中身の違い、豪華さに驚かされます。
この料理をつくったのはフランス人シェフだったということだが、日本の料理人たちも手伝ったに違いない。ペリーへの本膳料理による饗応からわずか十年余りで、こうした光景が現実になったことは感慨深い。
江戸幕府が取り入れたフランスの軍制は明治政府にも引き継がれましたが、1885年にドイツから参謀クレメンス・メッケルを招いて以降、明治政府はドイツの影響を強く受けることになりました。ドイツの影響は軍政だけではなく、国家作り・統治にも強い影響を与えていきます。けれど先進国文明の象徴であるフランス料理はその後も日本の西洋料理の基本として生き続けていきます。
明治天皇がテーブルマナーを身につける際に出されたのもフランス料理でした。そして1873年に天皇が西洋料理で外賓をもてなした時もフランス料理でした。
このときから"日本の正餐"は日本料理ではなくて、フランス料理になった。それから百三十年余り、いまもなお宮中晩餐会の正式なメニューはフランス料理である。
日本が不平等条約改正も含めた近代化路線をひた走った中で鹿鳴館が作られました。そこではフランス料理をメインとした美食とダンスと音楽を内外に知らしめることで日本の近代の姿を内外に鼓吹しようとしました。その試みは4年ほどで潰(つい)えてしまいます。鹿鳴館に招かれたフランスの小説家ピエール・ロチがこんな文章を残しています。
彼女たちはかなり正確に踊る。(略)しかしそれは教え込まれたもので、少しも個性的な自発性がなく、ただ自動人形のように踊るだけだという感じがする。(本書引用『秋の日本』の「江戸の舞踏会」より)
踊りはさておいてですが出された料理(もちろんフランス料理)は「シャンパン酒は最高級のマーク」、「パリの舞踏会のように」と絶賛しています。鹿鳴館を主導した井上馨が考えた「料理の面でも、日本が欧米諸国に負けない水準にある」ことを内外に示すことができたといえるでしょう。
鹿鳴館のダンスと音楽は消えてしまいますが、フランス料理は隣に建設された帝国ホテルへと受け継がれていきます。
ではペリーには嫌われた本膳料理は晩餐会等の席から消えたのでしょうか。それを見事によみがえらせた逸話がこの本に収録されています。主催者は西園寺公望です。十数年に及ぶ留学・海外滞在の経験を持ち、若き日には中江兆民との交流も知られている最後の元老と呼ばれた華族政治家です。
西園寺が首相のときにイギリスのアーサー王子を招いた宴席のメニューがのっています。宴席というわけは、この席は宮中晩餐会ではなく、芸者も陪席した西園寺主催のパーティーだったからです。第5の膳まであるメニューがのっています。(宮中晩餐会はフランス料理だったそうです)
ヨーロッパ生活が長く「洗練された西洋の文化を身につけていた」からこそあえて日本料理をふるまったのでしょうか。西園寺はフランスから飲み水を取り寄せていたくらいですから、フランス料理の良さも充分わかっていました。この日本料理での饗応は、平和主義者であった西園寺の友好と交流を示した「美食外交」だったのでしょう。この風流宰相・西園寺の章はこの本のなかでも独特の味わいを示しています。楽しい章です。
華やかな(?)晩餐だけでなく、この本には日露戦争のロシア兵捕虜を収容した俘虜収容所のメニューが載っています。見事に洋食を取り入れた豪華ともいっていいものです。このメニュー、今の拘置所、刑務所のメニューと比べてどうなのでしょう……。
大津事件、日清戦争の講和会議、旅順陥落、さらには大逆事件などを「食」の視点から取り上げたこの本は、ヨーロッパに追いつこうとした日本の歴史のもうひとつの顔を浮かび上がらせています。料理は間違いなく文化のあらわれです。そしてその文化に謙虚に、しかし貪欲さも忘れずに接し、挑み、吸収していこうとした日本のある種の「健全さ」をこの本はうつしだしています。歴史ファンだけでなく、グルメの人にも読んでほしい1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。
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