坂本龍馬の名前が教科書から消えるかもしれないということが話題になりました。もっとも、単純に消えるというわけではないようで、「今回の案は教科書の本文で扱って全員が覚え、入試で知識を問う最低限の用語のリスト」(朝日新聞デジタル2017年12月4日12時01分『龍馬・松陰より「理系が食いつく用語」を 歴史教科書案』より)からはずされるということだそうです。
なんのことはない暗記中心の大学入試のあり方を問題視することなく、現行の入試方針に従ったものでした。龍馬だけでなくガリレオやクレオパトラが取り上げられない教科書とはいったいどんなものでしょうか。
坂本龍馬も現行の教科書では薩長同盟の盟約に尽力したという程度の紹介だそうで、著名な『船中八策』や『亀山社中 (後の海援隊)』さらに「国際公法」を活用(利用?)して紀州藩と談判した「いろは丸事件」などには触れられていません。龍馬の歴史上の評価は教科書ではこのようなものなのです。
そのような評価(?)にもかかわらず、ファンの多い龍馬ですが、彼の魅力を伝えてくれたのはなんといっても司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でしょう。この歴史小説によって龍馬(小説では竜馬)のイメージが広く浸透されました。それまでは幕末の挿話的人物だった龍馬を日本のヒーローにまでしたのです。もちろん司馬遼太郎の小説の前にも龍馬はいろいろと語られてきました。
では司馬遼太郎をはじめ、巷間に伝わった坂本龍馬像はどこまで正しいのでしょうか、それを残された資料を駆使して追究した力作がこの『坂本龍馬の正体』です。
明治になり、まず龍馬は『汗血千里駒』という「小説風伝記物語」で主人公として描かれました。さらにより大きくクローズアップされたのは日露戦争前夜のある記事でした。それはロシアとの危機が迫る中、文字通り国難に直面したある日、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の夢枕に龍馬が立ったという時事新報の記事でした。龍馬は日本に勝利をもたらすものとして登場したのです。もっともこの背後には薩長閥(事実上は長閥に近い)政権に一歩遅れた(?)土佐閥の巻き返しという意図もあったと思われます。龍馬は快男児から守り神へと変貌したのです。
日本の強国化のシンボルとされた龍馬のイメージはさらに変貌をとげます。注目されたのは『船中八策』でした。
上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛(さんざん)せしめ、万機宜(よろ)しく公議に決すべき事。
この1節が議会主義を提唱しているとして明治日本の国会開設運動、自由民権運動のシンボルとして捉えるようになり、さらには平和主義者として龍馬を考えるようになりました。英雄的な快男児から軍神、さらに平和主義者と龍馬はさまざまな姿で語られたのです。けれどそれは龍馬を論じる(利用する)者が自分の思いを勝手に投影しただけにも思えます。有名な「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候」という言葉も、語り手の思惑で勝手に解釈されました。この言葉に過剰に思いを込めるのは自由ではありますが……。
龍馬が進取に富んだ闊達な人物だということとして語られるエピソードがあります。それは龍馬に傾倒していた檜垣という男との逸話です。龍馬にならって長刀をさしていた檜垣が、龍馬に自慢げに見せたところこういわれました。
「無用の長物だ。それではいざというときに役に立つまい」
といった。なるほど、と思った檜垣が、長刀を捨てて短刀にとり替え、次に会うと、龍馬は懐から短銃をとり出して、轟然と一発ぶっ放した。
それを見た檜垣はやっとの思いで短銃を手に入れ、龍馬のところへ赴くと、龍馬はこう笑っていったそうです。
将来は武力だけでは役に立たぬ。学問が大事だ。僕はいま『万国公法』を読んでいるが、これは非常に面白い。
これは事実ではないようですが、龍馬の「成長過程」と「合理性」を象徴している挿話に思えます。もっとも龍馬は北辰一刀流の使い手として伝わっていますが、著者の検証によればそうではないようです。
龍馬が入門したのは西洋流砲術の大家・佐久間象山のもとでした。砲術を学ぶにつれて、龍馬は砲術が持つ(西洋流の)合理性・合理的精神に魅せられるようになりました。さらに象山はある人物を龍馬に教えた可能性があります。その人物とはナポレオン・ボナパルトでした。著者はこう思いを込めて記しています。
龍馬の立ち姿──高机に片肘ついて、遠くを見るようなあの独特のポーズは、帽子を横に、きりっと姿勢を正したナポレオン・ボナパルトに酷似してはいないだろうか。写真、銅像ともに、龍馬が意識的に演出をしていたように推測されてならない。
ナポレオンに憧れた龍馬、それは皇帝としての治者・ナポレオンではありません。近代合理主義の化身としてのナポレオンだったのではないでしょうか。自由をヨーロッパに広める「世界精神」としてナポレオンを見た、哲学者・ヘーゲルの目に通じるものすらうかがえます。
龍馬の目にはナポレオンは、閉塞感のある封建制度、幕藩制度、身分制度を覆せる合理的な精神として映っていたのでしょう。新政府に出仕することよりも世界の龍馬でいたいというエピソードも、このようなことと関係があるように思えます。
では、もし凶刃に倒れずに明治政権を目にしたとき龍馬はどうしたのでしょうか。藩閥政権の下で、利権、斡旋、政商が暗躍し、富国強兵、国難等の題目を広め強権的な政治を行う政府に抗したのではないでしょうか。
彼の突然の死は、もしかするともう一つ存在したかもしれない、“まったく別な、維新の可能性”を永遠に消し去ってしまった。(略)
彼がもしも自由民権運動を指導し、のちの自由党を率いたならば、腰砕けになってしまった後藤象二郎や板垣退助ナなどとは異なり、国会開設の時期を早め、日本最初の衆議院選では与党候補者を圧倒して当選し、それこそ第二の維新を遂行したかもしれない。
龍馬が主張していた大政奉還は無血革命(流血のない政権委譲)でした。日本の置かれた国際状況、日本の国力(まだ統一国家ではなかったので国力とひとくくりに呼んでいいのかはありますが)を考えると内乱はあってはならないものでした。しかし大政奉還を有名無実化しようという徳川慶喜の思惑、徳川政権を倒すには流血しかないと奔る長州と薩摩を中心とした強硬派によって龍馬が意図した(であろう)無血革命は流産してしまいます。
明治日本は龍馬(の意図)を排除することで近代国家への歩みを始めました。そして明治日本は藩閥・利権・富国強兵策(という軍国)のもとで侵略主義へとつきすすみました。龍馬が夢見た「四民平等に基づく国家」はついに作られることはありませんでした。まがりなりにも「四民平等」となったのは敗戦後の日本国憲法まで待たねばならなかったのです。
今年は明治維新150年にあたります。龍馬の足跡をたずねることは明治日本の新たな可能性を探ることです。利権・強権・軍国日本だった明治を礼賛することではなく、可能性としての明治をさぐることが今求められています。龍馬はその重要なキーパーソンの1人です。幕末・明治日本を読み直すためにも必読の好著です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。