この本の冒頭に故・高橋まつりさんの話が出てきます。2015年12月25日過労の末で自殺された元電通の社員のかたです。メディアでも大きく取り上げられたことは記憶に新しいと思います。著者が注目したのは彼女に強いられた苛酷な長時間労働だけではありません。それが高橋さんのTwitterでした。その一部は本書に引用されています。
それを読んで感じたのは、言葉でのハラスメント、それも必ずしも厳しい叱咤だけでなく、もしかしたら加害者側にあまり罪の意識がないブラックジョークの中でかわされる「いじり」が人をむしばむ可能性だった。
そして、そこが社会的に問題視されていない限り、第二の高橋さんが出てもおかしくないのではないかと感じた。
「いじり」とは「他人をもてあそんだり、困らせたりすること」(『デジタル大辞泉』より)で、「いじめ」に比べて軽く見られているようですが、その実情はどうなのか、多くの取材データに基づいて追究した力作がこの本です。
演芸の世界で「客いじり」という言葉があります。かつては芸の未熟なものが笑いを作るために観客の反応を利用するものとして好ましくない(邪道?)とみられていました。昨今ではバラエティの浸透があるのでしょうか、芸の1つとなっています。バラエティ番組のMCタレントがいわゆるひな壇タレント芸人を「いじる」シーンをよく目にすることもあって、「いじり」が普通のことになっているのでしょうか。
「いじり」ということがどこか受け入れやすく、あるいは「認めざるを得ない空気」を作っているのにはそのような番組が助けになっているのは確かでしょう。
場合によっては「愛あるいじり」と良いことをしているつもりすらあるかもしれない。「いじり」の名のもとに、それがハラスメントであるということから免罪されているように見える事例も多い。
バラエティ番組内ではしばしば「愛あるいじり」と「愛のないいじり」の違いということがいわれることもあります。もちろん「愛のないいじり」は「いじめ」そのものですから論外です。すぐにそのような振る舞いはやめなければなりません。では肯定的にいわれることが多い「愛あるいじり」には問題はないのでしょうか。
実はこちらのほうにも大きな問題があります。まず最初に「愛あるいじり」と主張している人は「いじる側」であり「いじられている側」ではないということがあります。「いじられている側」の気持ちを勝手に推し量り、決めつけているだけに過ぎません。つまりは「いじる側」の正当性は「いじられている側」が反論しないこと、あるいは(しぶしぶと)受け入れていることに、その根拠を求めていることになります。そこには両者の力関係、(職場等)の地位(位置)が大きく影響しています。
しかし「いじる・いじられる」という関係は一方的な力関係だけではありません。「いじられる」ことの中にもある「効用」があります。それは「受け入れられる」ということです。「受け入れられる」とは「認められる」ということでもあります。
さらにもう1つ「いじる・いじられる」という関係には見落としてはならないことがあります。それは「キャラを演じている」ということです。
「イジられキャラ」は、「からかわれる役を引き受けることで、仲間から受け入れられている。本人も、からかわれることで親しまれる自分を感じている。(榎本博明著『バラエティ番組化する人々──あなたのキャラは「自分らしい」のか?」本書内での引用から)
このキャラ作りは「いじられる側」だけではありません。「いじる側」にもそれはあります。
「イジる/イジられるキャラを演じることによって自己肯定感を得ているのは、加害者も被害者も同じである。つまり逃れられない集団によって被害者が被害者になるのではなく、自己肯定感を得んがために被害者を甘んじて受け入れているのである」(向井学「『いじめの社会理論』の射程と変容するコミュニケーション」よりhttp://soc-kg.jp/kgu-gp/publish/03/KGGP_0003_002.pdf)
この「自己肯定感」とは「承認願望」につながるものです。「いじる」ほうも「いじられる」ほうもその言動を通して「自己」のありかたを主張していることになります。「いじる=いじられる」ということが、どちらもともに、あるものからの「肯定=承認」を獲得しているのです。この「あるもの」とは「その場の空気」というものでしょう。「いじるキャラ」「いじられるキャラ」を成立させることで「その場の空気」に受け入れられるようになっているのです。
ここに「いじり」が持っている「無責任性」の1つの要因がうかがえます。「キャラ」を演じるのは「その場」だけのことになる、つまり「その場をうまくやる」ために、あるいはそのためのキャラを持つということになります。これは肯定されたいと感じた「自己」そのものなのでしょうか。それは自分そのものなのでしょうか? 「いじり」や「キャラ」の難しさがここにあります。
どこか「ここ以外の場所」に「本来の自分」というものがあると思っている人は「その場の空気」を乱さないためにキャラを演じていると、ある種の割り切りでいられることができると思います。ですが、これは逆にいえば「その場」というものは一時的なもの、相対的なものだと思っていることになります。そうでなければ「その場」に支配力(=管理力)を及ぼせる「立場」にある人ということになります。
では「その場を重要視している」人、さらに「その場」の支配力を持たない「弱者」(新人とか多くの女性)にとってはどうでしょうか。自分そのものを出している人に向けて「いじられるキャラ」を「強要」することになります。そこからはものすごい「息苦しさ」が生まれれてきます。
「いじめ」が暴力的であるように、「いじられるキャラ」を引き受けさせられるのも暴力そのものです。
はたから見ると「コイツには何を言ってもいい系キャラ」「いじられキャラ」が密かに自分の身を切り刻んでいることがある。自分でも強いと思っている人こそ、ターゲットになりいじりが増長されると、メンタルヘルス悪化につながることがある。
たとえ「キャラを演じているだけ」と思っている強い人も「演じるキャラ」が自分の思っている「本来の自己」を侵食することもあるのです。
「愛」「親愛感」「仲間意識」、ときには「叱咤激励の意」、そのような言葉がまとわりつく「いじり」ですが、これは「いじりの関係」を肯定できる立場の人の言葉でしかありません。さらにそれは多くの「いじり被害者」を生んでいる、ということも気がつく必要があります。「いじり関係」には、小さく、ささやかに思える、だからこそ気づかない権力的な振る舞いがあります。「いじりで親しくなる」、それは錯覚であり、また自分のキャラ化も無条件に認めることが自分を追いやることにもなる、ということを知らされた本でした。人間関係に悩む人、必読です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。
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